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【1】「 誉高き祖先への御礼の訪問」
 
 インターネットで祖先を捜索していた徳島県三木市在住の長谷川さんのご家族は、易水館のホー ムページに「長谷川又兵衛」の名を発見、祖先である長谷川又兵衛が当流七代宗家長谷川主税助英信であったことが判明して感激した、と電話で連絡を下さいま した。
 平成27年6月29日、その方は徳島から東京八重洲にある老生の事務所へ古文書を手にわざわざ面会に御出でになり、八重洲ブックセンター二階にあるグリ ルでコーヒーを飲みながら長谷川又兵衛(英信)に付いてお調べになった情報のご説明を頂きました。この方はもう一人の長谷川庄九郎のその後についても調査 されており、これも大変興味深いものでした。(長谷川庄九郎は現在の長谷川酒造の創業者であり地元の名士として成功し、ご子孫は現在も香川県高松市に在住 されているとのこと。)

 長谷川又兵衛は、1931年(寛永七年)讃岐生駒騒動により46歳で二百石取の身分から浪人となり、江戸に残って六代宗家萬野団右衛門の業を継承、七代 宗家として後世へ名を残しました。
 そもそも長谷川氏の起源は 愛知県一宮(現在も長谷川性が多く在住しているとの事)で、織田信長に臣従後豊臣秀吉の家臣として朝鮮征伐に二度の出陣を果 した戦国武将でした。長谷川氏の血を引く又兵衛も伊勢の長谷川城を居城としていましたが、主家が讃岐高松城へ移るや生駒藩士として江戸勤務となりました。

 小生は、対談の記念として英信の子孫を東京駅に誘い、赤煉瓦の駅舎を案内しました。徳島へ帰省した長谷川媼は自家菜園で丹誠込めて育てた茄子と胡瓜、ト マトをわざわざ小生に送って下さいました。田園雑居「粗朶に煙無く老婦の盤丁無きを怒る無かれ」とはまるで逆の世界に引き込まれたかのようで、通常の三倍 はあるような立派な野菜達に唖然とし、一人ではとても喰い切れないので門弟にお裾分けしたほどでした。胡瓜は毎日塩揉みでどんぶり山盛りが1週間。茄子は 焼いて頂き、トマトは小生十年掛かりの定番レシピのチリソースへと化けました。

 小生が居合道正史の執筆に取掛ってより12年。調査を進めるなか、土佐の古文書に傍系二代目山川久蔵幸雄が錠八政之丞であったこと、傍系一代目にされた 松吉久盛が「謹慎願奉」り、同年病死していたという事実に行き着くことができた。「伝書を盗み」、「師家に化け弟子を密かに取った」山川という輩の素性・ 行状をも確認、ここに傍系系譜の生い立ちを解き明かすことができたのである。

 河野百錬先生はここまで解明出来なかったが、その著書「無雙直伝英信流居合兵法叢書」の文中の、「十代記載漏れ」や、「長谷川伝書不揃いを遺憾とする」 との注釈・記述から、何かに疑問を抱きつつあったことは伺い知る事ができる。

 伝書は山川によって盗み出され、書き写され、そして失われたため、十四代宗家林弥太夫政敬以降は口伝のみで伝えられることとなった。外国列強が押し寄 せ、開国と攘夷で揺れ動く国論に徳川の権勢が地に落ち、世の秩序が大いに乱れた幕末文政年間、脱藩浪士が天誅を叫び暗躍する時代に偽書「土佐神伝英信流秘 書」が産まれたのである。「数手の業」のみで夜逃げした山川に伝書が解読出来る訳も無く、結局山川の我流居合こそがそのまま傍系の系譜となった。そしてこ れに飛びついたのが竹刀剣士「中山博道」であった。

 この輩、昭和初期に大森流十一本で範士十段を名乗って京都の大日本武徳会に居座った。そして大日本武徳会の剣道審判員や居合道講師は徴兵検査忌避の特権 を 与えられていた。ライフコーポレーション会長清水信次の暴露談によれば、彼も十九歳で剣道審判員となったため徴兵検査を免除されたという。 戦前戦中における剣道連盟はあたかも国賊団体と言うべきものだったのである。

 戦後食い詰めた中山博道「先生」は正伝小太刀の位を剣道型として掠め取った。さらに今日の剣道連盟は、英信流中伝を剣道型として取り込み、しかもまるで 昔から ずっと伝えて来たかの様に都庁のテレビ画面に垂れ流している。これこそ将に傍系山川幸雄の所業の現代版とでも言うべきもの。系譜捏造に反省の色な ど無い“竹剣”道連盟は、それこそ慰安婦や南京大虐殺といった歴史捏造の中韓人と同じ行動規範、「核心的利益」と居直るのである。

 産経新聞報道によれば、ベトナム戦争時の韓国部隊によるレイプ被害者女性団体が米国で朴大統領に謝罪を求める抗議行動をおこしたとのこと。これこそ世界 記憶遺産として登録申請運動を立ち上げるべきであろう。

 話が逸れたので本題に戻す。居合道正史の仕上げとして、最後に二人の長谷川を追跡した結果が徳島の長谷川さんを招き寄せ対談に到る切掛けとなった。わが 師平井阿字斎先生も草葉の陰でさぞや喜んで居られると思いたい。当時元代々木の道場で小生が
 「先生、ハクドウの弟子檀崎は元ふんどし担ぎだったんです ね。」と訊ねると、先生は大笑いして
 「お前何処で調べたんだ」、
 「剣道日本に出ていました。」、
 「その本持って来い。」
先生は十五代説中山博道問題に「俺 が剣道連盟へ乗り込む」と大層憤慨しておられた。

 当時、先生は試斬りは1回切ればそれでお終い、何かを切る事を忌み嫌っておられた。何でも先生は若干二十四歳で満洲国警察学校の校長に赴任していた そうで、この時の体験を思い出しておられたからだろう。先生は憲兵隊学校で罪人の首を刎ねた経験談を私に聞かせてくれたことがある。「死ぬ時はジタ バタするな、目を瞑り観念して死ね、見苦しいぞ。」満洲の匪賊、山賊の捕虜や蒋介石のゲリラ(便依兵)の処刑体験を談じておられたものと思う。
 
 蒋介石便衣隊と言えば奉天「満洲馬賊王」小日向白郎を思い出す。

 この日本人馬賊は中国人尚極東「小白竜」を名乗り、密偵として馬賊の群れに身を投じ敵側である張作林の軍人として働いていた。便衣兵は三つ揃えの スーツで民間人の服装をした抗日ゲリラであり、日本人の警官、軍人だけでなく民間人をも対象とした暗殺集団で、勿論アヘン中毒の集団だった。

 始末に手を焼いていた関東軍は馬賊王小日向白郎を頼る。小日向はアヘン運送の警備代金として月何億円という収入を得ており、その一部を天津租界の乞食二 千人に毎日銭何貫の施しとして与え、陳班二十一代宗家として君臨していた。

 この乞食二千人を密偵に使い、便衣兵を捕らえては処刑し無言の恐怖を与える為その首を毎日川に流したという。その数は二百人にも及ぶとか。(参考:『馬 賊戦記』朽木寒三・渡辺竜作著)

【続く】

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