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5. 「序、破、急」
〜土佐抜刀芸家 林一族〜
 
 林崎無雙直伝英信流正伝九代 林六大夫守政 の父 池田五左衛門政良 は土佐初代池田豊後の五代目に当たる。
 この 池田豊後 という人物は、室町幕府で関白左大臣であった一条教房の倅一条房家に仕え、文明二年(1470年)主家とともに戦火を避け 京都山城から土佐中村へ一子助五郎政勝(池田兵部政勝)を伴って移動 していた。同じ頃、時の関白左大臣一条兼良
(日本和学の祖)も都から 奈良大和へと避難している。
 文明の前の年号は応仁、つまりあの“応仁の乱”の始まった頃である。池田豊後は土佐中村に息子助五郎政勝を預けて後、 兵庫に所有する領地を取り返すため再度内地へ引き返した土佐元祖一条教房の後を追ったが、率いた赤松、山名の徒党に討たれてしまう。 下剋上の始まりである。
 これに先立つ長録二年(1458)、飢饉と水害、天候不順などに室町幕府は打つ手なく、京の加茂川には腐乱死体八万四千人が放置されていた。 民衆を顧みない公家と幕府はこうして崩壊していく。この当時御所の天皇家の禄高は十五石で四十人が仕えており、
伊勢神宮すらも荒れ果てていた。時の後花園天皇は将軍足利義政を批判している。
 土一揆に始まり国人地頭地侍は年貢を横領し、社寺の年貢も取り上げられ、東の細川と西の山名が相対、両軍入り乱れての大戦乱たる応仁の乱は 十一年も続く事となり、武士と公家の権威は地に落ち、民衆の間に禁じられていた人身売買・人掠いが復活、全ての価値が反転したかのように 鎌倉幕府の武士道もここに消滅してしまう。農園武士を放棄した足利幕府の権威は奈落の底へ落ちゆき、虚飾虚文が氾濫する。 東山文化北山文化といわれる庭園金閣銀閣装苑や日本文化の侘び錆びの発生は、皮肉にも八万四千人の犠牲の上にあった。 公家、僧侶、貴族が戦火を避け地方へ下ることで京の文化が地方へ伝播し、地方の発展が始まる。 民衆と足軽(白足)の時代が到来するのである。
 一条家は家臣長曾我部元親の下剋上によって崩壊するが、 助五郎政勝も長曾我部に仕えこのとき討ち死にする。倅権吉郎政久が 七歳の時であり、その後長曾我部元親に仕えたが知行地を放棄して浪人となる。 その倅市衛政友は一生浪人で通す。
 応仁文明の大乱は、東西の親方である細川勝元山名宗全の両雄が病死したことで文明四年(1474年)に終結。大陸では元から 明に革命するもいずれも中央集権国家であるが、日本ではこのとき中央集権が崩壊してしまったのである。 九州沿岸での海賊倭寇の出現もこの頃である。西欧では三つ巴の宗教戦争“三十年戦争”が始まり傭兵部隊が暗躍、 ドイツでは一千万人もの死者を出している。
 日本居合の始祖林崎甚助の父浅野数馬も、京の都から戦乱を避けて出羽の国山形へ流れた。 足利幕府の礼法である「伊勢流礼法」を習得していた数馬は最上家に仕えたが、武家故実の礼式を妬まれ暗殺されてしまう。 甚助(浅野民治丸)は舘岡林崎神社の境内で「落刀の極みを会得」して居合術を習得、父の仇討ちに成功した。 業が霞で在ったか定かでないが、急の位」を確立していたのである。
 織田、豊臣、徳川と天下の大乱は続くが、大坂冬の陣を最後に、戦火は応仁の乱から百五十年の歳月を経て終息した。

 冒頭の話題に戻る。土佐中村の浪人池田一族の五代目に当たる池田五左衛門政良は、池田の氏を捨て林五左衛門政良と名を改め、 後に土佐藩料理人頭として栄達して行く。
 表向きは武家故実伊勢流指南であったが、裏では徳川幕府の目を掠め、御法度であった林崎無雙直伝英信流の習得と土佐藩への 武芸密輸を画策した。勿論三代藩主山内忠豊公の密命であり、人目を避け江戸へ「御意」この二字が不気味、隠密外交であった。
 武芸一つで生きた池田一門は弓、槍術、刀術等と武芸百般に通じていた。刀術では神泉伊勢守信綱の「真陰流古流五本の型」 そして「武蔵守卍石甲二刀剣」(宮本武蔵の二刀流)をも習得していた。

 つまり三代藩主へ幻の武芸“林崎居合”を売り込んだのは池田五左衛門政良 その人であった。代々土佐の自然豊かな四万十川流域で浪人の身であった池田一族は薬草学をも自得していたのであろう。 その為万治元年(1658年)のころ、三代藩主の御台所として仕え、毒味役も兼ねていた。
 そのころに京都にいた伊勢貞衡は日本の儀礼武家故実を以て家光に仕え、 江戸に屋敷を貰い正式に旗本となったが、林五左衛門政良は「御意江戸へ出立」万治三年(1660年)その倅伊勢兵庫貞益に弟子入りしている。この手引きをした人物が当流七代長谷川英信 (又兵衛)と推察できるのである。英信は讃岐生駒藩士江戸勤番として長年で江戸に在勤し、寛永十二年(1635年)の 讃岐生駒騒動に遭い四十六歳で浪人の身となったが六代萬野団右衛門信定 の内弟子として江戸に残り林崎居合術を習得。正保元年(1644年)五十一歳の時は果し合いで勝ちを納めている。
 以前から土佐浪人池田一族と讃岐の長谷川英信は武芸の交流があったようである。林崎居合の詰合を参考とした破の位」中伝を考案した英信は 浪人の身ながら六代萬野団右衛門信定の跡目宗家としての地位を築き、 八代の荒井勢哲清信も関東信濃の浪人であった。二人の浪人は、始祖林崎の 遺言「万世まで伝え残さむ」を如何にして実現し、正伝林崎居合術を末代まで残すかを考えていた。  太平の世に居合術はまさに無用の長物、英信は林五左衛門に徳川の目を掠め四国の土佐藩に林崎居合を隠し保存したいと 打ち明けた。その気概に打たれた池田(林)五左衛門は、この話を土佐三代藩主 山内忠豊公に持ちかけ、その結果幕府に露見した暁にはその全責任を取る事を条件として藩主の許諾を得るとともに、 苗字を林崎より一字を授かって林となし、池田の氏姓を捨てた。
 かくして五左衛門は表向き武家故実、日本文化の発祥足利礼法の勉学の為、伊勢兵庫へ弟子入りをして江戸に赴きつつ、 七代英信と八代荒井勢哲清信の了解を得て隠れて正伝林崎居合術を習得したのであった。
 延宝三年(1673年)土佐四代藩主の料理人頭・林五左衛門政良は江戸勤番十三年の労苦で逝去するが、この間に「 序の位」初伝業十一本を考案し、伊勢礼法の穢れ祓い 血振るいを手首の鍛錬も兼ねて業の最後に取り入れた。八代目浪人荒井勢哲清信の縁により、信濃松代藩でも無雙直伝居合、 剣術、棒術が取入れられていた。また、伊勢兵庫貞益が宗家であった伊勢流刀術長刀術の文献が運良く長野県県立図書館に 保存されている。

 土佐六代目林六太夫守政は父五左衛門政良の跡目を延宝三年(1675年)に相続し 江戸鍛冶橋上屋敷頭取(都庁跡)を兼ね、家禄百八十石の武士として伊勢流指南役を務めた。七代英信は享保四年(1719年)、 百十八才歳で逝去すると、兼ねての手筈通り九代目宗家を受け継ぐと、土佐藩の御留流とし長谷川流土佐抜刀芸家一子相伝、 林崎は記録上長年隠され続けた。これによって父五左衛門と七代英信の夢を完結させたのである。
 享保四年(1719年)、七代英信の死に水を取った林六太夫守政は、鍛錬に明け暮れた13年の命「 序の位」を初伝として組み入れ、享保十七年(1722年) 七月十七日に死去。二男与太夫は元禄十六年(1703年)に病死したため、守政は娘婿の 安太夫政詡を次世代の十代目宗家とした。三男(養子)八太夫政久は六代藩主の小姓として仕えていたが 正徳五年(1715年)乱心して自害、記録では「病死、俸禄返上」とある。
 林家の門弟では、武蔵国松井平兵衛諠正(荒井勢哲の縁者)が後に 江戸上屋敷居合術師範を御逢仕り、江戸城の警護頭に任命されていた。またもう一人の達人 生駒道之亟雅幸は土佐藩の師範となっていた。誰が不慮の死に会っても一子相伝宗家が継げるよう、常に数人が 用意されていた。

 話は飛ぶが江東区砂町一丁目(砂村)に土佐藩の下屋敷があった。付近には塩の道で有名な小名木川で河岸には石碑がある。 十軒川と交わる地点には土佐藩の刀鍛冶左秀行工房跡の碑文、その横には土佐 中浜万次郎の屋敷跡がある。川の両岸は遊歩道が整備され中州には野鳥が群れ集い、 カワセミの美しい姿を撮影する老人達の姿を見かけることができる。
 土佐勤皇党の坂本竜馬はこの下屋敷に住まい、京橋桶町の 千葉定吉道場に徒歩で通った。小生の速足でも1時間半は掛かる。この下屋敷には また長谷川抜刀術師範として稀代の詐欺師・錠八政之錠(山川久蔵幸雄) も潜り込んでいた。この男は(他頁にある様に)、土佐抜刀芸家林家の秘文書林崎居合道の伝書全てを盗んだ張本人であり罪人である。
 前年任命された御郡方御用を罷免され、翌年藩主に対し「謹慎願奉る」のち同年病死とあるが自害したと思われる 松吉八左衛門久盛(死人)を傍系十一代宗家に祭り上げ、その弟子であったことに して“久”の一字を掠め取り、盗んだ伝書を“土佐神伝流秘書”と書き改め「数手の業」で十二代宗家を名乗り城下の子弟を 食い物にしていた。挙句九代守政公が考案した「序の位」初伝業を大森六郎左衛門が考案したと捏造していたのである。

 土佐の城下で居合宗家の噂を漏れ聞き、追跡していた林一門は山川を見つけ問いつめた。似非宗家を咎められ誅殺を恐れた 山川は江戸へと逃げ土佐藩下屋敷へ潜り込んだのである。土佐の坂本竜馬も相手にしない程の腕前だったのであろう。 また山川が似非宗家であるとの情報も掴んで居たものと考えられる。幕末の動乱期砲艦外交に揺れ、佐幕か勤皇か攘夷か開国かの 世相の落とし子である山川久蔵幸雄は武士の最期の姿を浮かび上がらせ、また敗戦後の“剣聖”神伝流十五世 中山博道の姿とも重なる。現代でいうオレオレ詐欺師のようなものである。

 この“剣聖”中山博道の無双神伝流開祖のプロカパンダ垂れ流しで「序、破、急」の極意が喪失されてしまった。 まさに日本居合のゴミ、残念にもリサイクル出来ない居合剣士が世に氾濫した。合気道も同罪、怪我人続出、抜きで 畳も切れないような武道カルトと偏心してしまった。
 最近ではテレビで、日本刀を使ってこれ見よがしに卵や大根、トマトを切るバカがいる。まるで八百屋のオヤジが狂ったのか と思われる光景であり、大切な食べ物を粗末にする罰当たりである。
 昭和平成の日本人が日本武士道を恥じるようになった原因は全て国賊剣道連盟にある。戦前に於いては大日本京都武徳会 において徴兵検査逃れを画策し、内地の軍属として外地に出兵させられることなく優遇されていた。日本文化の誉「武士道」 はかくして食いつぶされた。

 「雨の雫したたる神宮外苑の学徒動員の行進が瞼を過ぎる。」
またオリンピックが近い。拉致問題も解決しない。武士道を忘れた日本人へ。

 日本国自衛隊は、陸自の射撃は年180発、月ならば15発。空自海自は3年に一回の射撃訓練である。同朋よどう考えるか。

平成28年3月4日 易水館居合道 林崎無雙直伝英信流正伝居合道
          宗 範 十段 若浦  次郎 勇哲


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