日本の武術と武道
「術」と「道」の違いを問われて即座に回答できる日本人、および武道愛好家は幾人存在するだろうか。固定概念に呪縛され、「武術」と「武道」を同じ位置に定義してしまっている今日の日本人、および国家は、「武術」と「武道」を履き違えてしまっている。
はっきり唱えれば、武道は明治以降である。明治以前は剣術、柔術、居合術で固定されていた。柔道あるいは剣道は明治以降に確立され、保健体育の体力向上を目的として門戸を開放した。文明開化は西欧を手本とした為に、日本は世界に対し教え導く世界精神を含有していなかった。ただ、武術精神、武士道精神しか存在していなかった。
柔道の加納師範は武道精神を輸出するために、オリンピックの精神クーベルタン男爵に謁見して、初のアジアでのオリンピック開催を訴え、東京オリンピックの開催の確約を取り付けていた。不幸にも大東亜戦争により開催はご破算とあいなった。武道とは明治以降に確立された呼び名であり、和魂輸出を目的としていた。明治には空手(唐手術)、および合気道も芽生えた。
「術」は流派の掟により門戸を開放せず、流派の特徴である秘伝を公開しなかった。このために発展が遅れたようであるが、結果的にはよかったのである。門生弟子を一般募集せず、各藩の流儀として温存していた為に、秘伝は地下水脈として世間より隠し通されていた。沈黙の民族の地下水源であった。
簡単に言えば、紀州徳川では田宮抜刀流(林崎無双直伝二代宗家)、 彦根藩では長野無楽斎の無学流(林崎無双直伝三代宗家)、徳川水戸藩では新田宮流、七代長谷川英信は尾張藩で、その後、流儀は土佐藩へ隠され、八代から十九代まで土佐の地で秘蔵されていた。
徳川家は一刀流・柳生新影流、薩摩藩は示現流、会津藩は渋谷一刀流、柔術は大東流(合気道の源)。武道家といえば武芸十八般(じゅうはっぱん)と歓声のよい響きであるが。日本の場合は空手道、剣道、柔道、居合道、合気道と単独スポーツも一般に武道家と混同されているが、実際には武道家と武芸者は全く違うのである。
武芸者として認識すべきは多種多芸、十八種の武芸に通じた武術者のことを、古来より指すのであり、十八種の武芸とは(弓術、馬術、槍術、剣術、水泳術など)あらゆる武芸に長じた者を武芸者と呼ぶのである。今日で言うならば弓道、剣術、居合術、柔術、棒術、空手、少林寺拳法、ボクシング等々、この中の四つも齧っていれば現代の武術者と言われていいのかも知れないと思うがどうであろうか。
術は統べ成るかな、総ての道、学術、芸術、美術、武術を追い求めて、肉体と知性の武芸十八般を漂白し、防護護身の技の完成を希求し、自己確立を目的とする。「よく整えし己こそ誠得難き寄る辺なり」武士は藩(国)のために、また家門一族の栄達のために武術と芸術に勤しんだ。鎌倉幕府の武士派の格言は「わが屍を乗り越えて行け」親子の間でも躊躇することなく、親、子の死体を踏みつけ敵に遅れをとるな、逆に言えば深い絆で結ばれていた証である。源頼朝はこの時代「人身売買を法で禁じている」この時代より遡ること240年前に平将門は武士の規範と道理、道徳を打ち立てていた。「敵の女、子供に手を出すな」女の実家まで護衛をつけて送り届けた。西暦940年(天慶3年)の事である。
現代の武道とは単に一歩道、唯一つの種目を飽きもせず生涯の友として他の種目を顧みない排他的な儒教思想に近く事故の種目こそが他の武道より一歩先んじているといった思い込み武道であると言える袋小路である。日本には江戸時代以前から、支那、朝鮮から仏教、儒教、道教なる思想哲学が輸入されていたが、徳川幕府は朝鮮朱子学を国教と定め士農工商が確立した。その影響から、諸方に対し道号なる呼称を用いたがる傾向が顕著に感じられる節がある。人の上に立つことを目的とし、尊敬と畏敬の念を得るために道号で飾り付けたがる。何でも道なる呼び名を付ける習慣が日本民族に取り付いてしまったのである。(「これを、朝鮮被れ支那惚けと申すのである。腐れ儒者とも言われる」)
道とは短くて呼びやすい神秘的な漢字ではあるが、江戸時代には儒道、仏道、新道、道家、医道と善悪、上下、貴賎、貧富と総て二説を立てる教門の私法で、私くしの道であったと道とは人間の食道に当たる。「知恵の偏った怠け者」と一喝した学者が日本にいた。時の人、江戸時代の八戸の町医者である、安藤昌益は統道真伝に書き残している (岩波文庫奈良本達也)食う為の手段であり金銭を目的とした呼び名であった。 安藤曰く、道とは本来自然の進退を指す、と書き残している。簡単に言えば農耕、漁労、林業などの職業人をその道の達人であると説明している。自然には山道、林道、農道、海道、風道が付帯する「働かずもの食うべからず、人間みな平等」であると、そう言いたいのである。(原始社会主義者)
日本の道号は、時の支配階級に接近する目的のために利用した道学である。この為に道の呼び名が氾濫する。人に敬われ人を見下すための偽りの処世術であった。太平の世の江戸時代に武士道が廃れ旗本八万旗は武芸を忘れ、武道家という言葉が希少価値として書物に書き記されてきた。如何に武士の中に本来の武士の姿を見出す事が出来なかったかの左証であろう。そのために文武両道なる二本の道だけが一人歩きした。「葉隠武士道曰く、武士は死ぬ事を見つけたり」死ぬにも二つの死があった。私憤で切腹か、大儀で切腹か、前者が小忠義、後者が大忠義である。私闘なら最悪である。御家断絶の憂き目であった。
武士の名誉に於ける敵討ち、成功しなければ御家再興ならず、判例として江戸末期に30年目に敵討ちに成功した例が存在するが幕府崩壊で御家再興には至らなかった。 また江戸時代の学問の発達は儒教朱子学を得て、日本独自の儒学、国学へと発展した思想哲学もある。その為に教養深く漢書に強く造詣が深かった。その為に明治の発展に貢献した。
今日の平和日本の原型と比較すると甚大な隔世の感がする。治ある所に乱あり、乱ある所に治あり、乱と治は一体であり、戦争と平和も一体である。「平和ぼけしていると拉致、サリン、ミサイル」で恫喝され金品と交換され、平和貿易の憂き目に遭遇する。
道とは本来、人権、人道を守るべき言葉であり崇高な響きを含有する原子であると著者は感じる。江戸時代には朱子学儒教の影響で、罪を犯せば連座法制、現代の不倫は姦通罪が適用されたが、一方では富貴なものは一夫多妻を謳歌し、上様は大奥三百人の夫人を養っていた。キリスト教徒は一夫一婦制で仏教、儒教、イスラム教、ヒンズウ教は一夫多妻制であると、西洋ヨーロッパとアジアの違いをモンテスキューは法の精神で指摘している。
日本道とは二つの解釈ができる。憲法第九条がそれを表している。世界平和を目的として武力を放棄する。一切の抵抗権、自衛権を放棄すると、目的の世界平和が達成されない時はどうなるのか、武力は放棄されないのである。是と同位置で戦後の平和主義では武道で、戦前の殺伐とした時代は武術であった。マスコミにおいて古武術ブームが到来している今日において、武術を武道として社会的に同義語に定義してしまっていいのであろうか。剣道と剣術が違うようにまた柔道と柔術が違うように、真剣居合術と居合道が違うように、武術と武道を別の言語とするか一体として同義語に定義してしまうのか意見の分かれるところである。
居合も戦前は真剣居合術と定義されていた。敗戦後に居合道なる言語が登場して、道の世界に流れていった。この原因は剣道家が海外に講師として招かれたのは良いが、白人が「竹刀は良いから真剣の使い方を指導してほしいと懇願され真剣を持参したが、扱いを知らず大恥を掻いた」この為、竹刀剣道も居合術を始めたが、真剣刀術を居合道と勝手に呼び名を変えてしまった。また、真剣試合術は難しくて出来ないので、他流の居合を盗み、剣道居合形として古流の居合を変形させてしまった伝統文化破壊業者であると見受けられる。元は術であり、居合道とは違うのであった。剣道は剣術から発生し、現代剣道には流派がなく、古武術である剣術には幾多の流派が存在し、消滅していった(正確には三千の流派が消えている)
敗戦記念日を境に、日本の武術は道の世界へ、術が道と合体して武道と変化して人道団体或いは教育団体へと摩り替わり変化した。和魂を忘れた軟弱な武道のような気がしてならない。道とは平和の象徴である。
日本の道は財団法人を設立し、文部科学省の監督官庁の下、体育助成金を目的として、一定のルールが支配した安全を目的としたスポーツ競技としての保健体育の教育科目となってしまった。
剣術では命のやり取り、生き残るための種族闘争の闘争術でルール成る物は存在しなかった。ただ、危険を避ける為に寸止刀法、さらに新影流の袋竹刀などで実践剣術を研究し、柔術と連結していた。歴史は古く中世古代まで遡ることが出来る。 剣道は指定の時間と引き分け延長があり、右足踏み込みの面小手胴突き、左足踏み込みの技は一切勝利のポイントとはならない規則としてしまった。竹刀は軽く三百から四百グラムで長さも決まっている。剣道は薙なたに勝って始めて剣道といえる。現代剣道は、右手主体の竹刀速当て競争である。われわれは日本文化の剣術と剣道の選別をはっきり区別しなければ成らない時期に来ていると思われるが、術は文化省で管轄し、道は文部省で管轄されるべき物である。柔術と柔道も全く違うのである。柔術は実践を想定し、胴着に袴を着用して技を掛け合う、柔道は胴着にズボン(パッチ)を履く業は技と呼ばれ、投げ技は似ているが危険度は柔術の方が数段上である。柔術の関節技、逆技、捩り。捻り、当身(白手)においては柔道では全て反則業に適用される。柔術とは甲斐実践用の組み討ちに考案された殺略を目的として敵の命を奪う戦闘術である。 「術は実践、無の境地、誇りである。道は机上の空論とプロシャのクラウゼブィッツハ戦争論に書き記す」
剣道、柔道、空手道においては、奇声を発し、掛け声だけで疲れてしまい兼ねない。煩く近所迷惑も兼ね備えている。奇声といえば薩摩示現流薬丸派であるが、明治の西南の役における官軍将兵たちは薩摩示現流の掛け声と切り込みに手も足も出なく、なす術もなく敗残の一途であった。官軍は対抗上抜刀隊を募集した。薩摩に恨みを持つ会津浪人を駆り集めてこの難局を乗り切った。この後の警視庁剣術に試練と教訓を及ぼしたことであろう。
剣術の掛け声の始まりは戦国時代に遡る。農民を戦に借り出していた時代、戦が本業ではない農民は、戦闘において腰が引け臆病で使い物にならない、そこで声を出すことで死の恐怖を克服させる目的を持って軍事訓練に取り入れた。
永禄年間戦国時代に居合の始祖林崎甚助が、二代目田宮平兵衛を伴い諸国を巡り、「農民は国の宝なり、無駄に死なす訳に行かない」と、敵の柄より一寸でも長き柄を農民に持たせ、エイの掛け声で切り込ませ、トウの掛け声で突きを行なわさしめた。ただこれのみの繰り返しで他の業は一切指導することなく、エイ、トウの訓練だけで戦に借り出した。農民の恐怖を取り除く為に考え出された掛け声であった。現代剣道の掛け声、気合はこの歴史に由来するのである。簡単なるかな恐怖の裏返しであったのである。(北条五代記より) また、陸軍戸山学校の抜刀戸山流がその典型である。当流正統十七代大江正路宗家が指導したのである。
居合術に於ける気合は含み気合いを用いて、丹田に気力を集中し剣を振り抜く真剣術刀法である。もともと掛け声は存在しなかった。正統宗家十七代、十八代十九代三宗家に於いて太刀打の位(居合剣術)の業を行う時に、エーイの掛け声を取り入れ改訂した。軍部官僚が日本武術の一代統合を目的とした大日本武徳会に歩調を合せたのである。また軍部官僚はこの時に日本古来の弓術の角度四五度をも九〇度に改訂してしまった。
居合術においてはもともと声を出さない、声を出すの起源は百姓、郷士剣法に由来するのである。恐怖の裏返しであること良く認識し、現代武道家は気合について考察すべきである。奇声は一歩間違えば精神病院行きである。はったり気合は神秘性が欠落する日本文化の沈黙の掟である内なる精神、品格品性をも失う恐れがある。現代日本武道は内面的精神を失ってしまい外面的文化を模索してしまった。匠の精神工房の精神を忘却している。日本の軍部官僚はこの奇声を初年兵教育に取り入れ気合が足りないと扱きの雨霰で鍛え捲くった。高等監獄と陰口を叩かれた。田舎者が更なる田舎者を気合が足りないと扱った。一撃必殺、一人一殺の四文字の美字に酔いしれていた。日本軍部の時の人、海軍山本五十六長官は空軍の独立を妨害した三権分立の軍隊は机上の空論となり世界の趨勢に逆らい時代遅れの軍隊のまま敗戦を迎えた。戦術の道を踏み誤ったのである。道とは一直線、ただ一つの道であり、専用道路の道であり袋小径の世界である。一歩道に凝り塊たまった戦術戦略であった。 武士道新渡戸稲造の著作は廃刀令以後に書かれたもので、武士は勇者の責任を果たす。現代で言えばエリートの責任、日本を代表する政治家、官僚、文化人マスコミらの国家国民に対する社会的責務を果たす役割を示唆しているのである。日本の武士は明治維新と共に武士の特権を放棄して野に下った。抵抗勢力は敗北を認めたのである。これが稲造の武士道である。稲造が武士に送った挽歌の書物である。稲造は最後に武士の偽者が氾濫すると予言して心配している。著者が著す術と道の使い分け、道が偽者で術が本物であると言いたいのであるが、マスコミの古武術ブームで術の偽者我流剣法者が現れ始末に負えない今日。歴史認識は消え失せ、報道マスコミが取り上げ、奇抜さを売り物にして食道の糧に心血を注いでいる。まさに虚道の世界である。先人の命を懸けた真剣刀法の真髄は踏みにじられ山師刀術を古流剣術と宣伝し、古武術愛好家を迷路に招き寄せる。無知なる現代人を遠回りさせ無駄なる時間を浪費させる。百害あって益なし。
術とは総ての道、知性と道徳、術と業において、敵人の攻撃に対する防御と護身を兼ね備えていなければならない、武の伐を止める字の如しである防御にも知性と武力の二つがいる。知性とは、世界の歴史と祖国の歴史を比較分析することが涵養である。外交とは歴史認識の記憶である。我が国の武道家は歴史に疎く体育会系は文科系に疎んじられ心の隅で軽蔑されて来た。特に現代武道家及び日本の精神といわれる真剣、或いは武士の魂であると言われる日本刀に対する知識が欠け落ち、拵(こしらえ)と白鞘の区別が就かなく、危険この上ないのでここに白鞘と拵えについて考察しておく。
拵えとは実践戦闘用に用いる刀で、柄巻き、ハバキ、鍔を刀に組み込んで目釘で固定した武器である。刀身を柄に固定する目釘は二本以上が目安である。古刀に於いては釘の穴が四つのものを見掛ける、さらに柄は強度の打撃に耐え得る白樫を材料に用いた。ここに先達の用心深さ残心を感じ取ることが出来る。現代は軽くホウの木である。(薩摩拵えは目釘を逆に差し込む、飛び抜けを手の内側で防ぐため) 白鞘とは刀の寝具(パジャマ)に当たり、長期保存を目的としている。真剣を拵えより解体して刀身だけを取り出し、鞘に保存するためのものである。刀身が錆び付いた時に鞘を捻り割り刀身を取り出し研ぎ直すためである。保存用の鞘である。戦闘に用いれば柄は割れ飛び散り、命の保証は無いのである。(網走番外地高倉健とは違うのである)
武道家を名乗る道学者は、能く能く認識しなければ滑稽この方無しで、日本武道の信用失墜を招く恐れがある。白鞘で剣舞を舞い、居合の物真似を弟子に指導するは、これ愚鈍先生なり。汗で柄は滑り、手の内より擦り抜け飛び出す、鏡を割り、床は傷つけ、公共施設の損傷に行き着くのである。パジャマ剣法と呼ばれる所以である。判りやすく断言すれば、術が拵えで白鞘が道と思われてくる。竹刀術と真剣術の隔たりの大きさを実感することが出来ない今日の剣道愛好家は、哀れであり滑稽である。
真剣居合術から見る竹刀術は子供の時から、背中に密着した竹刀の降り方を指導され、真剣術で悪癖と指摘される二度振り三度振りを稽古に取り入れ武道としての姿形を見だす事が出来ない、日本剣道の怠慢がここに歴然する。日清・日露戦争で活躍した単発田村銃(三八式歩兵銃)を、四十年間も改良せずに大東亜戦争の敗戦まで使い続けた日本軍官僚と同等の知性の愚鈍さである。
剣豪宮本武蔵は、「真剣は少しずつ重たくしなければならない、よくよく鍛錬すべきである」と五輪書にて書き伝えている。「石火の打ち、紅葉の打ち」曰く、敵の刀を簡単に打ち落とすことが出来る。当流二代目田宮平兵衛は、「手に適いば如何ほどでも長き柄を用うべし。柄長きは八寸の徳」と伝えている。重き刀を使いこなすのは業の内、長き刀、柄もまた術の内に入るのである。術は実践、実践は無の世界、術は民族の誇りなり。
道とは歴史である、歴史とは道である。戦前は皇国史観で、敗戦後は懺悔史観が王道としてまかり通り、教育は敗退して国家は行詰の道、目の前の悪に対し、なす術もなく、社会正義は忘却の彼方へ消えてしまった。誇りとは草莽の正義である。
日本武術と武道について
以上
平成十六年二月 吉日
日本居合柔術連盟 易水館
範士 若浦次郎
正統正伝 無双直伝英信流居合柔術兵法
直伝
夏原柔術