二人の長谷川英信 追跡紀行

 「 沈 黙 は 認 め た 事 に な る」

 二人の長谷川英信探索の途中、小生は中山博道居士の18代相傳、昭和2年細川義昌より授かりしと石碑に刻まれた記念碑に遭遇した。これも居合の神様の導きかなと感嘆したものであった。博道先生は18代相傳を弟子たちに吹聴して弟子たちを洗脳していたものと判断できる。

 小生は居合道正史の完結を目的として、七代長谷川英信を讃岐の国(現香川県)生駒藩の藩士であったろうと目星を付けていた。寛永十七年の生駒騒動(1641)に於いて、長谷川英信は浪人の身となり、江戸において六代萬野団右衛門の門人となって直伝居合を相傳したものと透察していた。日本史に記録されていた生駒騒動が原因と直感的な霊学で行動していた。この時点で土佐三代藩主の御台所となって居た、直伝九代の父林五左衛門(前名・池田五左衛門)と故実礼法の師・伊勢兵庫貞益の師弟関係の真実の証拠は土佐の古文書と長野県松代藩の古文書にて確定的な裏付け証拠二通を確保していたので合った。ここで小生が取り掛かった居合道正史は完璧な書物となっていた。たが念には念を入れて見た。直伝初傳の業を大森流と山川(旧錠八)に因って捏造された古文書が存在する場合もある。大森流の実態は直伝九代宗家の父林五左衛門(前名・土佐元祖・池田五左衛門)が伊勢流礼法と英信考案の中伝を折衷して考案した居合礼法で合った訳である。

 小生は或る手立てで生駒藩給人帳を手元に手繰り寄せた。幸運の女神はまだ小生にほほ笑んでいた。生駒藩給人帳を開いて見ると、二人の侍、長谷川が名前を連ねていた。二人とも200石の禄高で立派な武士で合った。だが英信の名前は見当たらない。二人の長谷川の一人が英信と名前を変名したものと考えられた。一人の讃岐の侍・長谷川少九郎の上司は森出雲で生駒騒動に於いて死罪(歴史に登場)藩の筆頭家老であった。一方の長谷川又兵衛の上司は歴史に登場して居なかった為にこで小生は英信探索の追跡が鈍った。困り果てて。生駒藩17万1800石は一万石と減封され出羽の国由利郡矢島へ転封された。(現秋田県由利本庄市矢島町)秋田市へ生駒藩関係の資料探索の旅を覚悟していた小生の元へ、一片の連絡が入った。生駒藩関係の資料は現存しない。ただ一冊の生駒藩史が書簡として東京港区の図書館に存在していると説明された。小生は図書館へ飛び込んだ訳である。この書簡の中に長谷川又兵衛の上司であった上坂勘解由は江戸家老で生駒騒動の江戸責任者で切腹死罪の憂き目に遭っていた。

 ここで英信の痕跡は小生の手中の中に再び飛び込んで来た。又兵衛(英信)の上司は江戸勤蕃で英信もまた江戸に在勤してした訳である。又兵衛は生駒騒動で浪人となり名前を英信と改めた。直伝居合との関わりは江戸勤蕃の時に既に習得していたものと推察出来る訳である。この後に英信は内弟子となり七代宗家を引き継ぐと同時に、初代甚助が考案した立膝(伊勢流ホームページ参照)奥傳を元に中伝の立膝を考案した。ここに七代宗家長谷川英信の追跡は一応完結した事になる。確たる英信変名の証拠は存在しない訳であるが、現時点ではこの説を立ち上げるしかないのである。この生駒藩史追跡の道すがら有栖川記念公園の裏道で擦れ違った大石碑が偶然にも「中山範士之碑」と刻まれていた。よくよく閲覧すると、門弟諸氏の協力により、昭和四十五年三月二十二日に建立された刻みが記されていた。洗脳された弟子たちは、嘘と解っていても引くに引けない所まで来ていた。偽りが偽りを招き寄せ虚偽道の道をまっしぐらと突き進んだ結果、綻びを結ぶ事が出来なくなった鈍愚の証しとなってしまった大石碑の空しさが夜陰に揺らいでいた。

 傍系細川は宗家でも何でも無く、傍系は正傳大江17代宗家が引き継いでいたので、死人に口無しの手法が用いられ国家国民を故意に欺く結果となった。現代日本に蔓延する偽りの象徴がこの時点で既に始まっていた訳である。幾つもの範士号と宗家号を記録した石碑には「日大雄院殿夢想博道大居士」との位牌名が刻印されているが。今となっては信じ難い白眼大居士の何が何だか解らない「何山博道範士」である。あくる剣道雑誌では十五代宗家と化け、日本一社・居合神社に於いては十六代宗家の額縁が掲げられ。剣道化の自慢の種である。すべて戦後なる養豚牧場なる日本民族の養豚思想哲学の奴隷教育は施されていた。異議無き声は戦後70年立っても沈黙は守られ、ただ一人20代宗家河野百錬先生の「傍系派名人」博道先生への贈呈名碑は英遠なる教訓として我々居合人の胸中に残る。

 格言「沈黙は賛同した事になる」世界の通念常識。 以上

 平成20年6月吉日 日本易水舘 宗範 十段 若 浦 次 郎 拝