三島由紀夫と神伝流

 作家の三島由紀夫は盾の会会員と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地に於いて割腹自殺した。 三島由紀夫は隊員の介錯のもとに割腹自殺したが、この介錯は二度の失敗の繰り返しであった。 二度とも奥歯の裏の顎の骨に当たり悶え苦しんだのである。(合掌)

 三島愛刀の関の孫六兼元は偽物を掴まされて、関の孫六兼元の剣の刃は欠け落ちてしまった。

 割腹自殺前に三島由紀夫は昭和の開祖中山博道の門弟の弟子であった。

 三島幸紀夫の居合の稽古がテレビで放映されたのは昭和42年頃であり、その場面で三島由紀夫の居合の先生が夢想神伝流居合の歴史と中山博道が考案した神伝流の経緯を熱心に説明していた。その記憶が筆者の脳裏に去来するのである。何かの雑誌にこの介錯の失敗談が説明されており、三島由紀夫の首を介錯した隊員は剣道だけで、居合の経験がないために剣の刃筋が狂ってしまい、またこの介錯に失敗した隊員森田の介錯を見事に一刀のもとに首を落としたのは古賀隊員であり、古賀隊員は居合の経験があったと説明していた。 さて疑問に思うのは、三島由紀夫指導のもとに二人の隊員は神伝流居合の介錯の稽古と試し切りの稽古に余念がなかったと感じるのだがどうであろうか。「時に利あらず」と書き残した三島の無念さを思い知る。

 夢想神伝流は中山博道が考案したと信じて稽古に励んでいた。また偽物の関の孫六兼元を斡旋した人物は誰であろうか。興味をそそる酷談である。

三島の関の孫六兼元と申す刀は、切れ味日本五傑の一刀で、江戸幕府の首切り処刑人山田浅右衛門は八代に亘り、明治14年7月まで斬首刑を執り行っていた。罪人の屍を使って切れ味を試し、これはその切れ味の結果を記録し、切れ味の順位を記録したものである。

 「最上大業物、大業物、良業物、業物」と4つに分類して、古刀では長船、初代兼元、二代兼元、応永三原正家、長船元重を最上大業物の一品に記録している。(刀剣春秋新聞社編日本刀新価格総覧より)

 山田浅右衛門八世吉亭は17歳から17年間に亘り刑の執行を致し、斬った首が三百人に上り、一族八代に亘り約2400人の処刑を執り行った勘定になる。(明治百話より)

 三島由紀夫と盾の会の隊員は神伝流の介錯の形を手本に、関の孫六兼元を手に決行の日まで日夜稽古に励んでいたのである。

 正統正伝居合無双直伝英信流の介錯の形と、神伝流ならびに傍系居合の介錯形は大きく異なり、この介錯で傍系居合と正統派の区別が一目瞭然と判別する。

 古伝の業、形は先達が命を懸けて心血を注ぎ、苦心惨憺の上に考案したものである。すなわち実戦で試した形だけが残され引き継がれて来たのである。業はシンプルで格調高く、隙がないのである。

 初祖甚助が発明した抜刀術の初期の頃は、鞘に納めた長束刀或いは長巻(合戦で敵の馬の足斬り用に用いていた太刀)を腰の帯に差さずに、太刀緒で腰の帯に吊り下げて抜刀していた。腰の帯に差しては四尺〜五尺の太刀は抜く事が出来ない。当時の日本人の体格は五尺(一尺約30?p)1m50の身体である。現代人は1m70が平均である。

 筆者がこの吊り下げる抜刀を試みたが、優に1m50(五尺)は抜く事が出来た。身長は1m75である。

 初祖甚助は馬上にて、この四、五尺の長束刀を左膝の近くまで太刀緒を調整し、抜き薙ぐっていた。長い三尺三寸の柄は都合よく右肩の脇の下に収まり無駄な体力を消耗させない梃子の役目を補ってくれた。真向に振り被り打ち下ろせば長い柄は、柄頭を握ることに因って、2メートル以上の太刀となり、突いては槍の役目と凪いでは薙刀を兼ねた一石二鳥の武器であった。抜刀は鉄砲のように早く、振りかぶれば敵より長い武器の威力は恐怖の的であった。向かうところ敵無しであった事が明らかである。

大森流居合について

 大森六郎左衛門は山内家四代の家臣で料理人頭。当主の毒味役と警護を兼ね備えていた剣術家であった。土佐山内家の藩祖は関ヶ原の合戦の時、西軍から東軍へ寝返った山内一豊で、他国から移駐してきた他国人であった。国を治めるために他国人である上士は土着人である郷士、足軽に対して「無礼打差許」という他藩に類のない特権を与えられていた。

 さらに過酷な掟は、足軽は雨の日に高下駄をはけない、郷士は猛暑の下でも日傘を差せないといった差別に次ぐ差別の種族闘争の火種が日常生活の中に公然と存在していた。(司馬遼太郎 人斬り以蔵より)

 そこで大森は秘剣、電光石火の早業、居合に着眼していた。「無礼打差許」と防御を兼ね備えた居合「無双直伝英信流」幻の秘剣。大森は江戸勤番中探しあぐねて、江戸の浪人八代荒井勢哲に入門した。

 当時、真剣での居合の訓練は鯉口を傷つけ鞘の消耗が激しく、抜く時に鯉口を傷つけないためには鞘音を発てない、鞘に納刀の時も音を発てない「穏やかな抜刀、静かなる納刀」における残心を学んでも、抜刀のタイミングを仕損じれば鞘の鯉口を割り、指を切り落として初心者に取っては恐怖の訓練であった。抜刀すれば鞘の鯉口は割る、指は切り落とすではとてもじゃないが中伝、奥義の業に付いていけるものではなかった。そこで大森は中伝、奥義の形を参考に「鞘音を発てない。鯉口を傷つけない。納刀の時も鞘音を発てない」この三原則を基に鞘手の恐怖を克服するために、大森自身の練習用の刀法を考案していた。

 当時は誰も鼻にも掛けなかった刀法であったが、正統九代目宗家の剣術の師であった関係と土佐藩お抱えの流儀とあいなった功績から当流初伝の部に組み入れて貰ったものである。

 「当流はこの大森流を居合と世間に称して、中伝、奥義伝は隠していた。剣聖と称する中山博道さえも知ることは出来なかった。知ったのは昭和25年以降であった」

幸か不幸か正統九代の先見の明があったのか、刀を持つ事のない現代においては初心者と老人のためには最高の贈り物であったと思われる。特に圧巻なのは介錯である。

 現代においてこの古流居合の形を勝手に変形させ開祖などと言われる御仁もいれば、疑似宗家を名乗り、疑似流派が古流正統派を凌駕し、官庁関係各大学に入り込み指導に当たっているのである。そのため各先生方により業の形が区々となっている現代においては、強く認識しなければならない。我々の感覚と先人たちの時代は時代が違うのである。抜けば直ぐ生きるか死ぬかの時代であった。惰眠をむさぼる暇も惜しんで日夜研究と稽古に励んでいた。いわば仕事、稽古時間が違うのである。幼い時から剣に明け暮れ、生と死に対する情熱、精神の訓練も合わせ日夜鍛練していた。古流形を勝手に変形させると言うことは、シンプルさ最短距離の殺略の業と素早い防御の業が失われ、流派の神髄さえも霞んで終うのである。真剣での太刀打の位、居合に於ける真剣の刀法は、竹刀、竹輪剣法とは全く異質なものである。保健体育の竹刀のイメージで居合の形を変形させるのは時代錯誤も甚だしく先人に対する冒涜である。