●新居合術入門
一、正統 無雙直伝英信流居合兵法
居合兵法は、古来幾多の剣家によって苦心研鑚の暁、創案された日本刀、即ち真剣をもって行う心身修養磨の道であって、急変に処して直ちに之に応じて己が身を守る(正当防衛)の刀法で、その座作進退により強靭な心身を練成するには勿論、敵前(仮想の敵)に自己を究明する無雙の道であることは、あたかも仏教の座禅に指摘し、日本武道の原点であり、処世の大道である。
居合の初祖(通常中興の祖と云)は永禄(一五四二年誕生)年間の人、奥州(山形県村山市大字林崎)最上家の臣、林崎甚助重信公にしてその流名を林崎夢想流またの名を重信流と唱えた。
徳川八大将軍吉宗の享保の頃(一七一六年江戸在住)の当時、空前の名手として聞こえた正統第七代長谷川主税助英信が古伝の業に独創の剣技を加え、流名をここに無雙直伝英信流と改めた。
古伝の業とは(太刀を佩くと)書くが、長束刀(三尺三寸、柄四尺の長巻野太刀)刃を下に向け、鞘を太刀緒にて腰に下げていた甲冑の実践用と、組討の用法に考案されていたこの業を、英信公は時代が求める太平の世に合わせた素肌剣法または着流剣法といわれる、刃を上に鞘を帯に帯刀することで古伝の業を大改革した。英信公は真剣の果し合いで人を殺めている。
元文時代に、正統第八代宗家荒井勢哲清信より、江戸勤番中に無雙直伝英信流を学んだと土佐藩四代目の料理人頭大森六郎左衛門正虎は真影流の使い手であったが、英信流中伝、奥伝を元に大森流(当流初伝正座部)
を考案した。(居合道加茂治作より)口伝技の説明は一切不明であるが、当流初心者用として七代英信の許しを得て正座の部へ組み入れて貰った。(居合兵法業書 河野百錬著より剽窃「ひょうせつ」)
大森の剣術の弟子土佐藩家臣林六大夫守政が当流正統第九代を継承したことにより、江戸から土佐の国へ伝承された。爾来正統第十九代まで土佐藩の門外不出(御留流)として伝承されたが、第十九代宗家福井春政は昭和二十五年四月四日、大阪の河野百錬範士に正統第二〇代宗家を継承された。(無双直伝英信流居合兵法業書 河野百錬著者参考)
これは土佐から日本全国へ普及させる目的をもって福井春政は河野百錬へ正統の系譜を譲り渡したのである。
(注、この正統正伝十九代宗家福井春政先生の英断に居合愛好家は感謝しなければ成らない。)
二、宗家列伝 正統系譜
無雙直伝英信流居合兵法
流祖 林崎甚助源重信
二代 田宮平兵衛業正
三代 長野無楽入道槿露斎
四代 百々軍兵衛光重
五代 蟻川正左衛門宗続
六代 萬野団右衛尉信定
七代 長谷川主税助英信
八代 荒井勢哲清信
九代 林 六太夫守政
十代 林 安太夫政羽
十一代 大黒元衛門清勝
十二代 林 益之函政誠
十三代 依田萬蔵敬勝
十四代 林 弥大夫政敬
十五代 谷村亀之亟自雄
十六代 五藤孫兵衛正亮
十七代 大江政路子敬
十八代 穂岐山波雄
十九代 福井春政鉄骨
二十代 河野稔百錬
二十一代 平井一連阿字斎
The Direct Lineage of Muso-Jikiden Eishin-Ryu
Founder: HAYASHIZAKI, Jinsuke Minamoto-no Shigenobu (b.1542)
2nd: TAMIYA, Heibei Shigemasa (Jyo-shu, Gunma Pref.)
3rd: NAGANO, Muraku Nyudo Kinrosai (Jyo-shu)
4th: DODO, Gunbei Mitsushige (Edo, Tokyo)
5th: ARIKAWA, Seizaemon Munetsugu (Edo)
6th: BANNO, Dan-emon-nojo Nobusada [YOROZUNO, or Manno in some documents] (Edo)
7th: HASEGAWA, Chikaranosuke Hidenobu (devised the intermediate rank forms in Edo)
8th: ARAI, Seitetsu Kiyonobu (passed on the Jikiden forms to Tosa, Kochi Pref.)
HAYASHI, Gozaemon Masayoshi (master chef in Tosa. In later times, MATSUYOSHI and YAMAKAWA made up a figure, OMORI Rokurozaemon, )
9th HAYASHI, Rokudayu Morimasa (master chef in Tosa. adopted the forms which his father, HAYASHI Gozaemon invented as the beginner rank)
10th HAYASHI, Yasudayu Masatomo (His name is eliminated from the Tosa Shinden-ryu books of secrets. )
11th OGURO, Moto-emon Kiyokatsu (Tosa)
12th HAYASHI, Masunojo Masanori (Tosa)
13th YODA, Manzo Norikatsu (Tosa)
14th HAYASHI, Yadayu Masamoto (During his time, YAMAKAWA Hisazo stole book of secrets which had come down in Hayashi family. YAMAKAWA also secretly accepted pupils, which meant a betrayal to the master. Also, Ise school of etiquette book of secrets was lost. )
15th TANIMURA, Kamenojo Takakatsu (expressed regret about the stolen book of secrets. In later times, he was made up as the origin of the Tanimura and Shimomura branch.)
16th GOTO, Magobei Masasuke (Tosa)
17th OE, Masamichi Shikei (expelled NAKAYAMA Hakudo. put the forms and names in order.)
18th HOKIYAMA, Namio (KONO, Minoru was apprenticed to HOKIYAMA in 1927, 2nd year of Showa.)
19th FUKUI, Harumasa Tekkotsu (Tosa)
20th KONO, Minoru Hyakuren (established a group called Dai-Nippon Yaegaki Kai in Osaka. Also established All Japan Iaido Federation. Its memberships numbered 20000, and the prime minister IKEDA became the chairman of the board.)
21st HIRAI, Ichiren-Ajisai and FUKUI, Torao (from here, split into two; the All Japan Iaido Federation and the Dai-Nippon Iaido Federation.)
WAKAURA, Jiro was apprenticed to FUKUI, established the Ekisui-Kan and now is the Chairman of the Board, All Japan Iai and Jyujyutsu Federation. He uncovered how the Omori school distorted the history to fake its legitimacy.
He also discovered that Iai forms have absorbed some features from the Ise school of etiquette.
The Collateral lineage
14th HAYASHI, Yadayu Masamoto
↓
MATSUYOSHI, Sadasuke (dispatched YAMAKAWA as a spy to the HAYASHI family.)
YAMAKAWA, Hisazo (stole the book of secrets of Iai and Ise school of etiquette from the HAYASHI family, thus he was excommunicated. He fabricated this book into the Shinden-ryu book of secrets. These can be said as one of the "4 biggest forged documents" in Japanese history.)
↓
SHIMOMURA, Moichi
↓
HOSOKAWA, Yoshimasa → NAKAYAMA, Hakudo (attempted a take-over of Tosa Iai school)
↓
YUKIMUNE, Sadayoshi → NAKAYAMA, Hakudo → DANZAKI
→ KAMO
→ YAMATSUTA
→ MASAOKA
→ KAMIMOTO
→ MITSUYA
↓
KATAOKA, Kenkichi

↑土佐の居合人/大正12年夏/於 山内候爵家庭前

↑林崎居合神社に奉献の無双直伝英信流記念碑除幕式記念(昭和38年5・24)

↑全日本居合道連盟東京大会 於白木屋(昭和32年10・11)
注、正統正伝十七代大江正路先生によって現在の技の呼称、並びに技の選抜が整理された。
「この偉業を忘れてはならない」。傍系居合も先生の名称を用いている。




上段左より十七代、十八代、十九代、下は二十代
三、夢想神伝流居合について
ここで大学、高校生の居合愛好者に夢想神伝流と称する名称に付いて説明しておきたい。
伝統系譜に依ると第十一代大黒元右衛門清勝から正統派と傍系二派に別れて後、その正流正統は第十二代林益之の系譜から谷村派として受け継がれ、傍系下村派は山川久蔵の師松吉八左衛門久盛から発生していた。中山博道が考案したと云う、夢想神伝流の原型は「文政二己卯之歳十一月吉祥日、山川久蔵幸雅記述(秘書と云う)」の目録に重要な箇所が記載されている「第二章、無雙神伝英信流居合兵法」と目録に銘記され、この居合兵法伝来に依ると初代から九代目迄は正解で、十代を大黒(十代林安太夫守政羽は抜けて大黒は十一代の記載ミス)として十一代を松吉八左衛門として、十二代を山川久蔵と記載している。ここに傍系の不思議な系譜の原点を見つけることが出来る(百錬居合叢書より)。無双と夢想の原点がお解り頂けると思われる。
第三章 大森居合之事
原文のまま 「此居合と申は大森六郎左衛門之流也」
「英信に格段意味無相違故に話して守政翁是を入候」 とある(文政二己卯之歳)。
行宗貞義相伝原文によれば「右大森流は業数十一本にして何の口伝も無く業の起こりも業附の書なし」(明治三十九年秋八月二十九日)
ここに一つの説が存在する。近来、神伝流又は夢想神伝流と唱える流名は、中山博道先生が、大正年間、土佐に赴き無雙直伝英信流の傍系、細川義昌、行宗貞義、森本鬼久身の三氏に入門して、当流を研究され、之に先生自身の創意を取り入れ変形されたもので、当流を基とする形の新名称である。従って業前は大体当流と大同小異である。困に中山先生は昭和六年よりその流名を使いその以前は大森流と称して居られた。大森流とは、当流八代の弟子で、九代の剣術の師大森六郎左衛門正虎が創始し当流九代へ伝え代々当流の初伝、正座の部として伝承されている。
居合道概説平井阿字斎より昭和四十九年九月一日
正統第二十一代阿字斎先生曰く「居合をみせるから請いと言うので行ったが大森流しか知らなかった」。これは中山博道先生のことである。
四、実態が掴めない中山博道門下の先生方の書物と文献

昭和43年12月15日発行、愛隆堂再販の平成12年4月25日とあるが、初版の日付は欠けている。
「『 加茂治作著書 居合道入門 』は一般的に著名な書物であるが内容は傍系の業の系列で、この本の中に最も重要な箇所を指摘しておきたい。22頁文末参照。十七代宗家大江政路については「なにぶんにも、大江先生の場合は遺言もなく、その会議もなかったようである」と、説明している。これでは正統派の穂岐山、福井、河野宗家等の名誉を汚し、勝手に宗家を名乗っていると受け取られかねない。宗家と云うものは生前に次の継承者を決定しているものである。
このあたりまでは正統派の宗家を列記していて、傍系の系列は記載されていない。業の解説は傍系居合で、正統派の居合の形ではないが似ている。
21頁2行以下について、「細川先生に土佐居合を学び、ついに夢想神伝流を完成された中山博道先生の功績は長く居合道の歴史に光を放つものである。」と記載されている。
(注 果たして光を放つことの逆で曇ってしまっていると思われるがいかがなものか。)

昭和?年?月?日発行愛隆堂再版の平成13年9月25日とあるが、初版の日付は欠けている。
愛隆堂山蔦重吉著「夢想神伝流居合道」の前書きに於いては、夢想神伝流をトップに位置付け、次に無双直伝英信流以下を列記して礼儀知らずも甚だしいもので、武道家として品格品性を伝えることが出来ない。
中山博道が考案したと云われる夢想神伝流の業は、大森流と長谷川英信流の二つの組み合わせで構成されている。八重垣、受流、介錯、付込、月影、抜打の業においては正統の系譜と同じ名称を用い、併せて古伝の名称も記載している。業においては格段の相違がある。さらに残心の気が欠け落ちている。中伝、奥伝においては尚更である。まさに無双直伝英信流を変形させたものである。
昭和八年中山博道は夢想神伝流抜刀術と称して、剣道連盟へ普及させた。それが弟子たちの手で夢想神伝流と改められた。そして全日本剣道連盟の管轄下におかれた。これを黙認した傍系居合下村派は中山博道を十六代と偽定した。それは正統十七代大江正路より格式を上にあげる為の策略と思われる。
全日本剣道連盟は中山博道死後10年後の昭和43年に全日本剣道連盟居合を制定し、制定居合なるものを作った。制定居合小委員会のお歴々。政岡一実範士九段(無双直伝英信流)、山蔦重吉範士九段(夢想神伝流)、壇崎友影範士八段(同)、紙本栄一範士八段(同)、額田 長範士八段(同)、沢山収蔵教師八段(伯耆流)となっている。殆どが中山博道の竹刀剣法の弟子たちである。
(注 真剣の立ち会いの経験の無い人物が新しい流派を開祖とすることは先達に対する冒涜であり、歴史と文化の破壊の道である。武術武道家の面汚しである。)
山蔦重吉の系譜列伝 正統派十七世を二人記載 大江正路
森本兎久身
傍系15細川16中山博道
森本兎久身を正統派十七世として記載し、大江正路と同格扱いに見せている。中山博道の師、森本兎久身を正当化してさらに中山博道を正当化している。
昭和51年10月1日発行(株)スキージャーナル「月刊剣道日本1976年10月号」では神伝流15代として、中山博道が36ページに写真掲載されている。


↑月刊剣道日本1976年10月号 ↑月刊剣道日本1977年9月号
昭和52年9月1日発行(株)スキージャーナル「月刊剣道日本1977年9月号」特集居合道34ページでは、「当時土佐の神伝流は二派に別れて対立していた。下村派の夢想神伝流と後藤派の無双直伝英信流である」と記載されているが、土佐にはこの時期神伝流なるものは存在していない。
無双直伝英信流が二派に別れていて、無双直伝英信流と無双神伝英信流の二つの派で、正確には正統派と傍系である。
さらに同ページには、「土佐を訪れた博道は無双直伝十七世大井正道も直接指導してくれない」と、意図的に「大江正路」の名を間違えている。居合道研究家が大江正路の偉業を知らない訳がなく、「演武を密かに見ることが許された、ただ一つのことだった」。たぶん無双直伝英信流初伝の部(大森流)しか見せなかったものと思われる。深きものは仮面しか見せないと云われるが、大森流は英信流の中伝、奥伝を隠す為の仮面であった。この当時(大正時代)は大森流しか公開していなかった。「森本兎久身をはじめ多くの指導を受けて帰京したのである。ただし、下村派の門外不出の無双神伝流に触れることは出来なかった」さらに「長谷川英信流に疑問を持ち始めた」とある。
「板垣退助の紹介で夢想神伝流十七世、細川義昌に大正五年十二月頃入門を許された」。「細川義昌は自分一代で絶えようとしていた夢想神伝流を博道に伝えたことで安心したかのように他界した」。さらに35ページに「そして博道は夢想神伝流十八世を受け継いだ」と記載されている。
(注、「自分一代で絶えようとしていた」とあるが、弟子は一人もいなかったのか、おかしな説である。
推断すれば傍系居合と云えども大正年間に他国の剣客に中伝、奥伝を授ける筈が無いと感じる。)
5.
昭和61年7月15日傍系居合無双直伝英信流、詳解居合著書三谷義里発行も、再版を行っているが、これも同じく発行者スキージャーナル株式会社。
この中に三谷は「中山先生は自ら十六代と称したことは一度もないが、居合神社に十六代の額があると言う」と26ページに記載してある。と、言いながら三谷は傍系下村派十六代として中山博道を明記し、十六代として認定している。
傍系居合の三谷義里範士九段は27ページに於いて「第十七代大江正路が大森流を正座の居合と名付けたものである、と言われている。」と記載しているが、前述の「文政二己卯之歳十一月吉祥日、山川久蔵幸雅記述(秘書と言う)」の目録では、「英信に格段意味無相違故に話して守政翁是を入候」とある。
行宗貞義相伝原文によれば「右大森流は業数十一本にして何の口伝も無く業の起こりも業附の書なし」と伝えられている。この山川久蔵幸雅と行宗貞義は傍系居合の系統であるが、二人が書き残した古文書で虫食いの状態を正統二十代宗家河野先生が土佐において蒐集した文献を百錬居合叢書に記しているのである。
(注、この居合業書は百冊限定で一般には市販されていない、隠れた貴重な居合文献である。)
三谷範士はこの二人の先人の説を一切無視して、正統流に対する恩讐を感じざるを得ない一考である。
特に大江正路十七代に対してはその感を否めない。説によると中山博道は大江正路に断られ傍系居合へ回されたと言われている。
(注、三谷範士の傍系系譜についての捏造は明らかで、大江正路を傍系居合の系譜へ押し込んでいる。)
12松吉久盛--13山川幸雄--14下村茂市---
大江正路---中山博道(正統十七世を傍系の系列へ列挙し中山博道へ)
-15--細川義昌---中山博道(連結して中山博道の正当性を主張している)
行宗貞義---広田広作(明らかな捏造である。無知なる者はこれを信じる)
6.
この五冊の参考文献で中山博道は無双神伝英信流の15世、16世、18世を名乗っているのである。死後十年から二十年の間にである。正に妖怪か怪物である。知らない間に神伝流の開祖と書き改められているのである。
7.
傍系居合系譜(無双直伝英信流居合兵法叢書河野百錬第四編より)
正統十一代大黒元衛門清勝からの分派---12松吉久盛13山川幸雄(無双神伝英信流の秘書作成)14下村茂市15行宗貞義16益田虎彦
正統十五代谷村亀之亟自雄からの分派---16楠目繁次成栄---17谷村樵夫自庸---18土井亀江
正統十六代五藤孫兵衛正亮からの分派---17森本兎久身---18中山博道
傍系14世下村茂市からの分派---15細川義昌---16上田平太郎---17緒方郷一
「百錬居合兵法叢書113ページ傍系派左記」を参考に数字を付け整理したものであるが、果たして分派したものが歴代宗家を名乗ることが出来るのであろうか。分派とは分裂あるいは破門を意味する。宗家が決定した新宗家に従わず流派を飛び出すことは師の教えに背くことである。
当時の歴史的背景、徳川政権の国教儒教朱子学の教えでは考えることが出来ない。宗家より隠れて修行するのは認めることは出来るだろうが、弟子をとる事が出来ないと思うが・・・
跡取りがいなくて困っていた細川義昌は自分一代で絶えようとしていた夢想神伝流を博道に伝えたと言われているが、孤独の剣士の心の内が滲み出ているような気がする。
土佐山内家に庇護された正統正伝居合は門への出入りを許され、傍系居合も出入りが許されていたのか甚だ疑問である。
「百錬居合詳書の山内侯爵家庭前の写真 土佐の居合人、大正十二年夏」には十七代大江正路を中心に十八代穂岐山波雄、十九代福井春政鉄骨正統の居合人等数人が記念写真におさまっているが、傍系の居合人は一人として入っていない。
正統十一代大黒元衛門清勝からの分派---12松吉久盛13山川幸雄は徳川文化文政の時代である。天明の飢饉から半世紀、世は農民一揆と御陰参り、さらに天保の飢饉へ向かい大塩平八郎の乱が勃発しているのである。西日本のコレラ流行、全国的旱魃、江戸大火の災害、腐敗した大御所政治の醸し出すさまざまな矛盾が背景となっていた。
士農工商と四つの階級と武士の階級にも、上士、中士、下士と差別があったのである。
五、昭和における居合道の歩み
昭和二十五年四月十四日、大阪の河野百錬範士は正統第二十代宗家を継承する。
昭和二十九年五月、全日本居合道連盟を結成した河野宗家は自ら理事長に就任する。
「ここで百錬先生は、土佐居合の文献古文書蒐集の後、寛大な心で、『正統派も傍系も無双直伝英信流に何等変わりはない』と書き残している。この寛大さに感謝すべきである」。
昭和三十二年十月十一日、全日本居合道連盟東京大会を白木屋で開催する。(会長池田勇人)
昭和三十三年十二月十四日、中山博道歿享年八十九才
1.全日本居合道分裂の序曲の足音
昭和四十九年、平井阿字斎が河野百錬範士に正統第二十一代宗家を継承されていたにも拘わらず、河野宗家が危篤状態に入ると、二十一代宗家の東京支部道場に夢想神伝流を名乗る親子がスパイとして潜り込んでいた。練習生に対して「平井宗家は勝手に宗家を名乗っている」と吹聴していた。傍系居合の画策が密かに侵攻していた。連盟乗っ取りの画策であった。
「時を同じくして道場内で『中山博道第十六代宗家の額が掛かって在った』と、林崎神社の宮司より平井宗家のもとへ電話連絡があった」と東京支部道場で話が持ちきりであった。
(注、二十一代平井阿字斎は大正十四年より大森流、神道無念流を習得し錬磨したが之にあきたらず、河野宗家に師事し、昭和三十五年五月より全日本居合道連盟副理事長に就任して、師河野百錬理事長を補佐し、その発展に尽力し、宗家門下の最高弟として活躍していたが、昭和五十年五月末、全日本居合道連盟理事長正統二十代宗家河野百錬範士鬼籍に入るを以て全日本居合道連盟の理事から除外され、内紛が勃発して、三派に分裂。これを期に平井第二十一代宗家は昭和五十年に大日本居合道連盟を結成する。
昭和五十年五月五、六日、大日本居合道連盟は京都西武館に於いて第一回大会を開催した。この時、宿舎としていたお寺の境内に、傍系の剣士二十名が押しかけて来て、立ち業のデモンストレーションを行った。(著者もこの大会に三段として参加してこの光景を目撃していた)
「今でも脳裏に去来する土佐居合の立業の素晴らしさよ」
(注、この時、平井宗家暗殺計画の話が伝わって来ていた。)
六、正統二十一代宗家の死後の日本居合道界
平成四年四月二十二日平井阿字最歿
この後、正統二十一代平井宗家が故人となった後に全剣連と夢想神伝流一派は制定居合なるものを押しつける為に「剣道を取るか無双直伝居合を取るか一つを選べ」と強権を発動した。全国の正統無双直伝居合愛好者が何人もこの制定居合の策略の被害者となった。
中山博道の夢想神伝流は、弟子の手で林崎居合神社の社殿の内部に勝手に額を掲げ、如何にも古武術の開祖として、始祖林崎甚助の再来の剣士として、現代の日本国民を欺いているのであるが、一介の物真似剣法が国家の怪物としてまかり通っている現状は、日本文化の破壊と歴史の歪曲である。
中山博道は月刊誌剣道日本の記載によれば剣聖と紹介され、剣豪高野佐三朗と並び表される剣客である。神道無念流根岸新五郎の弟子で有信館を受け継ぎ、香取神道流の剣術の形より日本剣道形を抜粋した現代剣道の蹲踞(そんきょ)の姿勢である。昭和天皇の御前で帝国日本剣道形を上覧している人物で高名な竹刀剣術の剣士である。弟子たちが情けないのか博道先生の教育が良くなかったのか、我々には知る由もない。あの講道館柔道さえも柔術の名誉を汚すことはしていない。
七、平成の宗家の数々
現在、インターネットなどの文明の利器による宗家の乱立と各連盟の分裂は甚だしいものがある。
全日本居合道連盟 正統河野百錬門下
- 二十一代宗家福井虎雄 - 二十二代宗家池田隆聖昴
(山形県無形文化財指定)
大日本居合道連盟 正統河野百錬門下 - 二十一代宗家平井阿字斎 -
二十二代宗家二代目阿字斎
(全日本居合道連盟より分裂)
日本居合道連盟 無双直伝英信流正傳 - 二十一代宗家清水俊光 -
二十二代宗家利水幸夫 -
二十三代宗家清水寿浩
(大日本居合道連盟より分裂、無外流第十一代宗家中川申一)
夢想神伝流第二十世正傳高田学道(傍系居合)
山内派英信流 第十七代宗家大江正路
- 第十八代山内豊健 - 十九代宇野又二 - 二十代坂上亀雄 -
- 二十一代川久保龍次 -
二十二代佐藤和三
(元大日本居合道連盟理事)
無双直伝21代宗家関口高明(傍系居合)
系譜捏造
この宗家の乱立は正統二十代宗家河野百錬の死亡後から始まった。各自が勝手に宗家を名乗り、宗家を捏造して、正当性を抹殺してしまった。この原因は日本剣道連盟とスキージャーナル、愛隆堂など数社の出版元が時間を掛け、正統派の行動を見極めながらマスコミ文献を使い日本全国に流し、反論しない正統派をよそに知らぬ間に抜け駆けして、中山博道の神格化を図った制定居合小委員会の面々が、自我を通そうとして自我の道(弟子取り)、金儲けに走ったためである。
結果的に傍系居合の宗家捏造の発生を引き起こし、今日の混乱を招き、文化破壊と歴史的歪曲を引き起こしてしまった。その先兵となったのが、居合道入門の作者加茂治作、さらに夢想神伝流居合道の作者山蔦重吉、傍系居合の詳解居合道作者三谷範士らが協力連携して、制定居合なる昭和の言論の自由と表現の自由を悪用し、新しい業の居合を策定し、定説化してしまった。
さらなるは、傍系居合の山川久蔵が残した文政の秘書と言われる土佐居合兵法神伝流秘書の目録には、無双神伝英信流居合兵法とある。中山博道と神伝流の謎がお解り頂けると思う。
(注、剣の刀法は四世紀に始まり、八世紀のはじめに撃刀(たちかき)が日本書紀に記載される。古より剣は法であり、経済(狩猟)の要であった。剣により治安と秩序は保たれていた。(仇討ち、敵討に怯えた。)新渡戸稲造「武士道」より)
(初祖・林崎甚助源重信公が永禄年間に日本国内に広めた居合はその後の素肌剣法に於ける究極の秘剣として、探索追求され、その後の流派は七十余存在するが、すべての源は初祖林崎甚助源重信公に辿り着くのである)
初祖・林崎甚助源重信公の系譜の発展
直弟子七人 1、高松勘兵衛信勝(一宮流) 2、東下野守元治(神明夢想東流)
3、田宮平兵衛重正(田宮流・抜刀田宮流) 4、長野無楽斎槿露(無楽流)
5、関口弥六右衛門(関口流)6、武田刑部左衛門(大明神夢想流)
7、片山伯耆守久安(伯耆流・一貫流)
2の系統からは水鴎流
3の系統からは1,以心流
2,田宮神剣流 3,新田宮流 4,自鏡流 5,紀州田宮流 6,無外流 7,無形流 8,勝新流
4の系統からは1,一宮流・一宮古流 2,一宮当流
3,林崎田宮流 4,上泉流・民弥流 5,神流 6,田宮神田流 7,林崎新夢想流
8,林崎夢想本心無敵流 9,無双直伝英信流
10,無双神伝英信流 11,夢想神伝流
5の系統からは1,管想流 2,渋川流 3,柔新心流 4,神心流・真心流 5,関口流抜刀 6,関口新々流
7,肥後流
7の系統からは1,心働流 2,影之流 3,神流 4,伊沢流 5,浅賀流 6,磯山流 7,山岸流
歴史的疑問
1.六代萬野は享保の時代に七代長谷川英信を育てた。英信は享保の時代に古伝の居合を大改革したと言われる。一般定説である(無双直伝英信流居合兵法叢書/河野百錬)。
2.加茂治作に依れば元禄年間、大森六郎左衛門は江戸勤番中八代荒井勢哲から英信流を学んだ。
3.正保年間に長谷川英信は竹川無敵と称する剣客と真剣試合をしてこれを斬り殺し、名をあげたと作家の峰隆一郎は「剣豪はなぜ人を斬るか」の中で説明している(青春出版社)。
この三者の年表の正保年間から元禄、享保までの時代を合わせれば以下の通りである。
正保四年、慶安四年、寛文十一年、延宝八年、天和三年、貞享四年、元禄十六年、宝永七年、正徳五年、享保二十年、元文五年合わせて八十七年の歳月が経っている。
2の加茂治作に依れば元禄年間、大森六郎左衛門説では元禄ではなく元文の年間である。
3の峰隆一郎の正保年間にある長谷川英信の説では享保の英信は百歳を超えていることになる。
注、歴史に絶対は無いと云われるが、歴史の真実をねじ曲げると悲惨な悲劇の始まりである。
国技と言える日本居合の正しい歴史と文化を正しく継承しなければ、居合人の美学は失われる。道について、プロイセンのクラウゼビッツは「戦争論」において、机上の空論と論破し、術こそが実践、無の世界であると言っているが、どうであろうか。また剣術家で道の世界を求めた者は、宮本武蔵、柳生但馬守二人が知られているが、彼等は実践の殺略の後に仏教へ帰依するために、道の世界へ救いを求めたと思われる。術の世界を極めた者だけが道の世界へ入る。日本国の場合とヨーロッパの世界は逆のようである。
我が国の道の世界をどのように分析するか、道を冠すれば何でも武道となるか、武術となるか面白いところである。道学者となるか無の世界へ憧れるかは現代の世界では到底登り詰めることが出来ない。計り知ることも出来ない。よめよめ(世目世目)居合人は認識しなければならない。
参考資料文献
日本の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/中公文庫
日本国民に告ぐ・・・・・・・・・・・・・・・・/小室直樹
歴史に観る日本の行く末・・・・・・・・・/小室直樹
新戦争論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/小室直樹
日米の悲劇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/小室直樹
侵略の世界史・・・・・・・・・・・・・・・・・/清水馨八郎
リヴァイアサン・・・・・・・・・・・・・・・・・/ホップス
戦争論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/クラウゼビッツ
善悪の彼岸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/ニーチェ
武士道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/新渡戸稲造
日本剣豪列伝 ・・・・・・・・・・・・・・・・・/江崎俊平
月刊日本剣道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/スキージャーナル(昭和51年10月号、同52年9月号)
詳解居合無双直伝英信流・・・・・・・・・/三谷義里 スキージャーナル
居合道入門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/加茂治作 愛隆堂
夢想神伝流居合道・・・・・・・・・・・・・・・/山蔦重吉 愛隆堂
居合道概説 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/平井阿字斎 非売品
無双直伝英信流居合兵法叢書・・・・・/河野百錬 非売品(百冊限定)
八、正統21代 宗家の嘆き
昭和五十年全日本居合同連盟分裂後のある時の道場での宗家の嘆きは小生の脳裏から片時も消え去ることはない。「あの時、形を直してから、統一してから連盟へ入れるべきであった。それなら乗っ取られても構わない、納得だ、いろんな無双直伝を見たが正統派に優る居合は見たことがない」
「これは20代宗家河野百錬が昭和29年全日本居合同連盟を結成した当時、全国から連盟参加の希望者が絶えなかった。この時に無双直伝を名乗る傍系居合すべての形を正統派の形に直して加盟させるべきであったと、正統派の居合が如何に素晴らしい居合か、後世のために統一できなかったことが残念だと、21代宗家が道場で語っていた言葉である」
数だけを頼んだ河野百錬先生の大失敗であったと、無双直伝居合形の統一はここに永遠にままならなくなった。正統派の形と傍系居合の形は永遠に統一されることはない、まして別形昭和の開祖神伝流もあれば、偽者宗家を名乗る宗家乱立となれば、後世に残す正統直伝形は永遠に残すことが出来なくなってしまう恐れがあるからである。各人が勝手に業の解釈を取り違え居合形は変化していく今日である。これを古流居合と唱え、門人は哀れにも取り違え、洗脳され、間違いに気が付いたときには後戻りが出来ない状態に陥り、嘘が嘘を招き寄せ、珍問屋居合兵法とこき下ろされ、正統正伝居合も同じ珍問屋居合と同列に配置されるのである。
幸い小生の道場では昭和五十年全日本居合同連盟分裂前の居合形を継承しているが、全日本、大日本も、各々納得の行く形の名称を書き換え今日に至っている。
ここに正統正伝居合形と傍系居合の相違を解説してみる。
1 正座に於いては膝を閉じる。急所金的を守る、後ろの足の親指は重ねない。指を立てる時に動作が緩慢となり敵に遅れをとる。
2 八重垣於いて、立ち上がらない、横一文字に抜き付け後に一歩前に出る時に目線を同じくして一歩前進、この時に立ち上がらない、敵の動作に間に合わなくなる。
3 受け流しに老いても、正面の敵に対する受け流しで、後ろの右足に体重を移動して、左足の踵を浮かすのではなくて、前足の左足に体重をかけたままで足の踵を浮かし壁を解くのである。傍系居合はウケ流しではなく、よけ流しである。不条理な受け流しである。
4 介錯は武士の切腹を伴う解釈でなければならない、傍系居合の介錯は罪人の首切り介錯である。
5 追い風に於いても、傍系居合では柄手を右腰に引きつけ相手を追って行くが、腰の左側からはみ出た鞘と鐺は不足の障害物と接触して、敵を追いかけることが出来ない。塚頭を体の中心に於いて正統派では追跡する。
この違いは傍系居合神伝流秘書文政二年の山川久蔵幸雅述(目録、無双神伝英信流居合)に行き着くのであるが。この流れを溯ってみたい。河野百錬居合兵法業書傍系派左記より順を追ってみることにした。
正統11代大黒元右衛門よりのち三回の分裂と傍系居合下村よりの分裂を併せて五回の分裂が繰り返されている。傍系が傍系を造り、これ即ち五派の傍系居合無双神伝英信流が存在していることは、居合形がまちまちな五派が存在して、森本兎久身から中山博道の神伝流を併せて六派の居合形が存在していることを、何も知らない、無知なる初心者は甚だ迷惑な被害を被ることになる。また無双直伝英信流宗家を名乗る宗家が七人から八人は日本国内に存在してくることになる。
河野百錬居合兵法業書は昭和29年に編纂された。この時河野百錬は「傍系も正統派も何等無双直伝に外ならない」と宣言したために、傍系居合がこれを利用し、今日の混乱を招き寄せる原因を造り上げてしまった。書物と書籍で大江正路17代以下正統は歴代宗家を屈辱し、大江正路17代を利用して宗家捏造して、あたかも傍系が正統派して君臨している今日。幸いにも現代ではインターネットにより証拠を提示できるようになった。当時このような時代がくるとは誰も予測することが出来なかった。この事実は傍系居合にとっては誠に耳の痛い話で、針の筵の上の境地となるだろう。
最後に
兵(つわもの)の語源は鍔、鍔者から変化したものである。さらに筋が立つ立てるは刃筋を立てるから変化したものである。剣を司るはこのようにありたいものである。
鉄を振る事はすなわち鉄の精神、意思を造り鉄の肉体をも作るは剣の哲理なり。
われわれは神の技、初祖甚助の後継者たちである。
居合において刀を扱うことは、歴史そのものであり、歴史を学ぶ最高の機会である。他の日本武道に比べ歴史は深く日本精神そのものである。