居合道論諦 易 水 舘
当団体は、468年に亘る日本最古の真剣居合術の始祖、林崎甚助源重信公を始祖として現代に伝わる。正統正傳 無雙直伝英信流居合兵法である。日本武道の最高峰に位置する。この組形の中には武家礼法伊勢流と柔術(夏原流)が組み込まれている。この日本古来の継承と保存を目的とした文化団体である。業の部は初傳の部(正座)と中傳(立膝)奥傳(立膝)奥傳(立業)太刀打位(居合剣術)と分系されてる。
初傳の部は長い間大森流と伝えられていたが。これが真っ赤な嘘で傍系に当たる山川幸雄(錠八政之丞)の伝書捏造により、傍系一派から中山博道先生へ渡り世間一般に流布された。大正年間の事であった。大日本武徳会へも大森流、英信流として持ち込まれていた。戦前と戦後の日本武道会と世間一般はこの大森流を既成の流派と誤信していた。この大森流は正傳九代宗家林六太夫守政の父林五左衛門が江戸時代の万治三年(1660)江戸在住の伊勢兵庫貞益へ弟子入りし、伊勢礼法を元に初傳業を考案した訳である。(傍系はこの業を格好の付け過ぎであると批判する)流派の形に伊勢礼法を取り入れ雅を追及した居合礼法である。旧正月の武道納めに藩主一門の御前で居合礼法として執り行なわれていた。
伊勢とは武家礼法伊勢流の事で、伊勢流は室町時代1392年以降に確立された故実礼法であった。この礼法勉学と長谷川抜刀術修得は土佐三代藩主山内忠豊公直々の密命を受け密かに林五左衛門は土佐から江戸へ旅だった。この歴史的真実は平成16年(2004)に易水舘館長の探求によりイターネット或いは書簡により世間に明らかにされ歴史的誤信は解れたわけである。
ここで注目しなければ成らない事は初代林崎甚助の父浅野数馬も伊勢流指南であった事である。
正傳九代宗家林六太夫守は父の相続人として土佐抜刀芸家と伊勢流指南として二つの家元となり土佐藩江戸藩庭上屋敷へ勤務し藩の料理人頭取として君臨した。 当易水舘は伊勢流礼法を無雙直伝英信流全般に取り入れ、手の組み方足の組み方を補充して業の行前を九代宗家時代に復古さした。特に初傳に於ける介錯は伊勢流介錯を取り入れ改革した。特に我々が残念なのは当流居合の伝書の一覧表となっている20代宗家河野百錬先生が昭和30年に編纂した「無雙直伝英信流居合兵法叢書」の書簡の中で記載漏れした当流15代谷村亀之亟自雄宗家が書き残した業の伝書を省略して記載しなかった事である。貴重な正統派の伝書を見る事が出来ない訳である。百錬先生は傍系山川幸雄(錠八政之丞)伝書と何等変わらないと判断して土佐神伝流秘書を重宝した事である。当流15代谷村亀之亟自雄宗家の資料としては「伝書不揃いなるを遺憾とする」天保15年(1844)書き記した一行だけを百錬先生は取り上げた。この一行が貴重な暗示となり傍系山川幸雄(錠八政之丞)が数手の居合形を元に師家と偽り土佐城下で弟子を取り立て始めていた。問い詰められた謀反人は神伝流秘書を見せ言い逃れた。(錠八政之丞)は林家より盗み出した抜刀伝書を神伝流秘書として書き写し弟子を取り立てていた訳である。
この時代は天保の前の文化文政の時代に辺り、14代宗家林弥太夫一門より免許皆伝を与えると、数手の居合しか習っていない錠八政之丞に約束した。免許皆伝を受け取りに行くと約諾はしたものの、思案と相談の結果、錠八政之丞は約束を守らなかった。暗殺されると思って反故にした。反故にした錠八は追い詰められて、直接か文書で分不相だとして旨く逃げた。このあと錠八政之丞は破門とされた。逃げに逃げ錠八は命からがら養子縁組をし江戸へ逃げた。数か年の我流居合と養子先を見つけ、名を山川幸雄と改めた。「土佐成徳記」は伝える。
九代宗家の父林五左衛門が万治三年(1660)江戸へ旅立ってから15代谷村亀之亟自雄宗家天保15年(1844)までの歳月の期間は184年の年月を重ねていた。二世紀の間に武士道の秩序は崩壊していた。
この後に執り成すものが有り、山川一族と林一門は和解した。金銭での決着となった。この後の山川は悲惨な謗りと差別を死ぬまで受け続けた事であろうと思われる。土佐の差別は世界一の掟であった。
ここに傍系山川の逆恨みの起点は芽生え、居合根元の巻きは捏造され、傍系半身居合抜きの変形抜き付けは確立された。日本四代偽書として昭和の世界へ氾濫するのである。良貨はに悪貨に屈墜されるの法則が始まってしまった訳である。 山川は初傳を大森流として偽造した。林を足すと森となる更に足して大森となる。頓知の極みはここに始まる。
傍系居合根元(傍系居合系譜)の巻きでは、正傳宗家10代を抹殺し一代繰り上げ正傳11代大黒を10代として11代に松吉を据え、山川本人を12代宗家として分派を偽造して書き記した。ここに昭和と平成の混乱の元凶が始まった。 後の災いの種となる「土佐神伝流秘書」と、傍系曽田虎彦氏の研究によると言われる松吉久蔵以下山川(錠八)、下村茂市。中山博道の二人の師と成った細川義唱及び行宗貞義らの系譜は正傳河野百錬先生へ送られ百錬先生は疑う事も無くこれを盲信して、『無雙直伝英信流居合兵法叢書』の題材として取り入れ、傍系左記伝として後世へ残した。この系譜を元に中山博道(神伝流開祖説)傍系16代宗家が生まれた。
傍系曽田虎彦氏は行宗貞義の直門と言われ傍系居合根元の巻きを作成した人物であるが、時代は溯りこの以前に居合根元の巻きは子爵山之内豊健氏によって紹介されていた。氏は17代正統宗家大江正路の直門で昭和13年(1938)大日本武徳会居合術教士の頃に共著谷田佐一氏と本の出版をされ、題名は「解圖居合詳説」3月15日発売と成っている「無雙直伝英信流居合系統」として、「居合根元の巻き」では、「大江先生は先ず下村茂市に就いて学んで其の統を継ぎ、更に後藤正亮に学んでその正統を繼がれ、こゝに集大成せられたのである。」と貴重な歴史的事実を後進に提示した訳である。ここに初めて正統宗家の言葉が生まれたのである。敢えて子爵豊健氏は傍系の文字は避けている。氏の郷土愛に満ちた愛情を感じる事が出来る。時代は変わろうと藩主一門の信条は殿様である。 百錬先生も当時河野稔として、大日本武徳会居合術教士として「無雙直伝英信流居合道指導要綱」として寄稿している事実を拝見する。河野先生も子爵豊健氏の「解圖居合詳説」を見ている筈である。この書簡は昭和17年に三版として再出版されている。
山内、曽田、二氏の居合根元の巻きの信憑性に就いて論諦して見たいと思う。当館は大江先生の弟子であった子爵の系譜を推薦する。ここに大江先生の初傳業の呼称と詰め合い業の選抜をした。整理と改革の権利の謎を解く事が出来る訳けである。傍系と正傳二つの土佐居合の継承者である事は歴然とした。
傍系曽田虎彦氏は下村茂市の弟子大江正路を抹消して百錬先生へ傍系居合根元の巻きを寄贈して、正傳20代宗家百錬先生に手渡した。百錬先生は土佐神伝流秘書を見て安堵した。「何だ傍系とは〃と」ところが一番大事な所を見落とした訳である。百錬先生の野望は甘かった傍系も正統派も同じだと持ち上げ「全日本居合道連盟」に組み込もうとしたが。後に宗家問題を取り上げた傍系一派は「大江宗家後の宗家は決まっていない」と剣道連盟加盟の加茂治作居合道入門より始まり、昭和51年より月刊誌を発行して傍系居合人の反撃が始まった。ケツマクリは全て博道先生を剣聖と奉る一団であった。その後もカルト教団よろしく何年とこの反撃は続いて行くわけである。
真実の傍系居合根元の巻とは、下村→大江→(細川、行宗、片岡)→曽田、中山博道と連なるのである。この流れで行くと神伝流中山博道先生は大江先生の孫弟子に当たる訳である。博道は大江先生より弟子の行宗へ預けられていたのである。
山川(錠八)の弟子で在った下村茂市定は、明治元年(1868)年、居合術指南役となり小性組となるも廃藩地県で指南の道は閉ざされた。下村は初め體術導役として、藩校文武舘(後の致道舘)に抜擢された。藩校は1862年(文久二)に、参政吉田東洋の発案で計画された。下士、上士の融和を諮るために建設され、四月五日に開校されるも四日後の朝、土佐勤王党によって暗殺された。
この時に傍系下村派は生まれた。山川偽書は亡霊となって、土佐家中を席圏し子爵の山之内豊健さえも信じていた。山川破門から39年、林五左衛門が江戸へ出立した時から208年の歳月である。
山川(錠八)は、14代宗家に破門されているその流れから行くと、仮説として15代目山川(錠八)→16下村→17大江→18細川→19中山博道と仮説が成り立つ。12代松吉と言う人物が浮き上がる。この人は錠八が破門を打ち消す為の当て馬と解析される。何等土佐居合に関係ない人物である。
正傳直伝と傍系神伝の二つの流命における土佐居合の歪みは何で在ったのかこの問題を探求して見たい。
正統正傳土佐長谷川抜刀術は、極秘事項として「無雙直伝英信流」として位置付けられていた。大江先生以前の家元制度は一子相伝の時代で、始祖林崎の奥傳は宗家だけの専売であった。宗家以外は長谷川抜刀術だけで現在の中傳、初傳しか教授しなかった。奥傳を授ける時代は大江先生以降の時代である。
その証拠に「近代剣道書選集10」に掲載されている。「居合読本昭和9年8月1日付」に於いて範士・中山博道先生は、大森流と英信流の図解だけで奥傳の図解は掲載していない。即ち修得していなかった訳である。
奥傳を大日本武徳会に紹介したのは教師・山内豊健氏で昭和13年3月15日付での「解圖居合詳説」に於いて明確に立証されている。
日本各藩に直伝の文字は松代藩の中にしか発見する事が出来ない「無雙直伝流棒術」或いは「直伝本流剣術・居合・棒術」である。後は各藩に林崎夢想流が多く見られ、南は九州宮崎延岡藩一件、近畿に姫路藩一件だけで、後は北関東緯北に広がり東北地方青森弘前藩まで伝搬されている。如何に林崎夢想流の影響が強烈であったか実感される。現在日本各地に居合道は受け継がれているが、各指導者は己の流派の系譜系図が判然としないまま、マスコミ、専門雑誌、口伝などで系譜はまちまちで、歴然とした系譜は存在しない、またマスコミを使った組織的陰謀で捏造が流布されたなら、それは国民国家に対する裏切り行為となる。偽書文献が更に捏造されていたら尚更である。「大江先生亡き後の宗家は決まっていない。何も聞いていない」と何十年と出版を繰り返されたなら、解き明かすのに何百年の年月と時間を必要とする。
土佐居合術総師大江政路宗家も大森流を信じていたが、無雙直伝英信流初傳の業として存在していたので呼び名を変更してしまった。傍系の山川は隠されていた「無雙直伝英信流」の呼び名を参考に『無雙神伝英信流』と書き替えていた。神の名を臆面も無く用いた。素人を欺くのに大いに役にたつ、この流名から神伝流がうまれた。神の名前を冠するのは。香取神道流だけである。
『漢字百話白河静』より
武道の「道」の字は、元は導で、恐ろしい意味で、異族の首を手にしたシャーマンが敵地に潜入し、その首で呪術を撒き散らしながら戦士を従えていく意味を文字とした。遺族を侵略するための行為である。また術も同じ意味である。
なお「真」の字は死体を意味し、道端に横たわる死体の意味である。
この道を道路から道徳へと昇華させ又真の字を真実へと昇華させた一派が支那の荘子一派である。道教である。原始宗教から形而上的哲学へと昇華さした。
道路から道術そして道徳が生まれる筈であるのが正解らしいが道教一派は道術を経過しなかった。何を示唆しているのか一考の余地はある。
以上