バナー

道場便り(ロシアよりスピリッツを込めて)

20072月の中頃であった。メールがロシアのモスコウより届いた。東京へ居合の修行へ行きたい、正伝・無雙直伝居合を10日間の間、12回の講習を受けたい、3月か4月に訪日したい、その要望に快くメールを拝復して準備は整った。果たして彼らは正伝居合の神髄と精神を学び取ることが出来るか、昨年の200610月モスコウの居合愛好家に授けてきた100本のDVD初伝中伝の映像を見てどれだけの進歩を見せてくれるか彼等の演武が楽しみである。

 平成19313日火曜日、メールの拝拝復の日時どうりに成田航空へ、麻810分到着のJAL441便を待ち受ける為に到着ロビーへ向かう、待つこと40分彼等二人の来着を通訳二人と筆者三人は出迎える。総勢四人で二人の同伴者は娘(ダーチ)と婚約者の女性であった。通訳人を挟んで練習日程票を渡す。彼等二人は、最初に先生がモスクワへ持参した模擬刀26寸・1.2キロの居合刀をお借りして二人とも練習したいとの要望であった。だが小生は「1キロの居合刀で練習した方が足への負担が軽く、業が進、数が増える、最後に足に疲労が溜まる」と通訳さして、二人を納得さした。この日のよつ(ベーチェル)から二人の練習は開始される。小生は通訳人を通うして「業の意味が分からない時にはわからないとはっきり言え、ニューズナチュとロシア語で返答しろ」と伝達させた。

同伴者の二人は別行動である。高速バスに乗る間にダーチ(娘)と婚約者を紹介された。筆者はロシア語で挨拶した。オーチニイプリヤートナ(はじめまして)この挨拶には尾ひれがついていて、昨年10月のモスコウ訪問の際に「おい1−2 ?」と挨拶を勘違いした小生の早とちりの一件であるのですぐ発声された。ダーチを紹介された小生は(ダーチ何?娘)ダーチは小学六年生?「よく聞くと今度大学へ入学するとの説明であった。」小生は笑いでごまかした。一人の婚約者は小生よりも身長が高くスパーモデルであった。

 バスの中で、通訳士とロシア語の確認を下。通訳人なしと判断した小生が予め道場で使う単語を筆記したロシア語を手に発音の確認である。箱崎で下車した筆者は、夜の練習の為に自宅へ帰って寝る(スパーチ)君たちもホテルでスパーチと合図して別れた。この日の夜の午後六時の黒門小学校体育館での来日初練習は、初伝業の手直しで二時間を要した。ストレッチ準備体操の時間は入っていないのである。予めよろしく。

来日二日目、14日水曜日、午前10時の神田錬成舘道場は掃除から始まり、神棚に拝礼し、黙祷と拝刀を手直しして、中伝立膝三本を指導する。一時間半を要した。

 この後に道場近くの中華屋に昼食の為に入った所、一人の露人は肉を食しないと言うので「野菜ラーメンを四人分注文した。ラーメンに肉の切れ端を見るとノー(ニェート)と拒否する獣の入ったスープも魚も駄目と宣うので、好き嫌いが嫌いな小生は己が頼んだ。ザーサイとしろめしを指出す、彼はぱくついた。いたたまれなくなった彼は豆腐のサラダを特別に造って貰って昼食を完了した。「難儀な問題が脳裏を掠める。」この後は、浅草リバーサイトスポーツセンターへ行く予定であるが。時間をずらして浅草観光へと雷門へ連れて行く。彼等はこの街がよほど気に入ったらしく、この後も連日家族と通訳人を伴って訪問していた。午後二時半浅草リバーサイトスポーツセンターに買いの道場へ案内すると、彼等と通訳人は驚嘆の悲鳴を上げた。日本式の本場の道場を前に「ハッラショー」トリプルハラッショウで感激してくれた。

この日は、ノンストップの中伝が二時間におよび続けられた。中伝(立膝)左足の踵に尻の菊門を当て全体重を預ける、右足は左膝の内側に引き寄せ心持ち右膝を立てる。至難の業である。別名鎧武者座りである。伊勢流の座り方で、公家礼法は足が逆である。この座り方は日本人でも最初は五秒と持たないのである。小生等は、最初は板張りで一秒も持たなかったものであった。毎朝畳の上で一秒五秒と時間を増やして行った記憶が溯る。まして彼等は異国の人である、日本は異郷の地である。まず最初に道場の掃除を三人並んでモップを走らせる。最後にモップを降ってゴミの多さを見させる。「ゴミは刀剣を錆びさせる。刀は油を塗っている。ごみが吸い付く」と通訳人に説明して伝達させる日本人の掃除好きはここから来ている。わかるかな?中伝業に入ると、横雲、虎一足、稲妻、三本は午前中に教授していたので、四本目の浮き雲から始めた。浮き雲は難なく突破して、颪は業の省略が酷く歪な業に変形していた。多分DVDに収録された小生の業の早さに合わせようとした結果、業が狂ったようである。刀剣のロックと、足の運びを治すと見事に正伝の業に到達した。彼等はモスコウにおいて連日四時間の猛練習を繰り返していた。この午後の練習時間の二時間はあっというまに終わってしまった。返りは神田神保町を通うり靖国神社を教え、皇居を回り溜め池を経由してロシア大使館前を党利宿泊先の芝パークホテルへ到着する。

15日木曜日、朝九時ホテル芝パークへ迎えに上がる。女性の通訳人に伝える。今日から奥伝立膝へ入る。未知の世界へ「日本の武士道と西洋ヨーロッパ騎士道の違いをはっきりと認識させる」「西暦900年敵の女子供に手を出すな。これが日本武士道の原点である。ヨーロッパ騎士道の略奪、拷姦、皆殺しとはまったく別物である。よく肝に銘じよと、二人に伝える。 今日から通訳人なしで、小生と露人ら三人は神田錬成舘道場へ一時間半の初伝、中伝の完成を目指した。昼食を浅草で取り、水道橋の尚武堂へ袴は既製品が合わず仕立てで注文し、白の胴着は既製品で合った。彼等二人は黒い胴着で袴は短く、小生が長い袴で足裁きを隠す見せない寸足らずはガールかボーイと解説すると、居ても立ってもいられなくなったのであった。ホテルで(スパーチ)昼寝を促し、午後六時の迎えを促し別れる。午後七時から江戸川清新中の体育館で奥伝に入る。アッダッフヌーチ(休め)を五分間取り一時間半の奥伝は反復運動が続いた。186糎の丈夫は足に痺れをきたして来たので、アップさせ、小生の業を見学させ、業の時だけに立膝を組ませて修行に励んだ。もう一人の露人は140粁の巨体を左踵に預け耐え忍んでいた。まさに露人二人の難行苦行は称賛に値するものであった。90分の苦行は終わった。一人の巨体の露人は小生の真剣を持たしてくれと頼む、渡すと彼は何度か振り降ろし無理だと首を振り合図した。

16日金曜日、浅草リバーサイドセンターは午後一時より二時間を耐え忍び終わった。186糎の丈夫は足首に布を巻いて立膝に耐えた、限界に来ていた。彼はロシアコサックの末裔で自国では、馬を所有して馬術に明け暮れ、コサック剣法にも通じている。もう一人の露人140瓩の巨体の持ち主は、元国家秘密警察(KGB)の出身である。訓練の後に浅草見物を終え、夕方(ベーチェル)には二時間の難行苦行が待ち受けている。彼等の晩御飯について小生は考えを巡らし、松坂屋の地下食品売り場に二人を案内して買い物を勝手に促した。もと国家秘密警察(KGB)上がりのディミトリイワノフ氏41歳は特に肉が好きで日本の刺身が大好物であった。彼の手は鮨にそして菜食主義者のコサック(ガザっク)セルゲイチェチェルニコフ氏39歳のために薩摩あげを買い求めた。小生は稲荷鮨と太巻きを買い求めた。黒門小体育館の入り口の階段で夜桜よろしく包みを解く、稲荷鮨と太巻きを彼等二人に進める。二人ともハラッショと特に菜食主義者のガザック氏は感激していた。

1、腹拵えの後に彼等二人は一般門人と同じ練習を繰り返す。初伝、奥伝、中伝と直伝の業の流れ(チェーチ)は続く、二人の足の限界は極みに達していた。ガザック氏は正座で観戦し、(元 KGB)氏は立膝で貫き通うした。彼の初伝中伝の業には小生の門人も肝を抜かれていた。

二時間の訓練が終わり芝パークホテルでの懇親会では、英語が分かる門人を連れ、英語が分かるガザック氏と通訳人と彼等の家族と併せて七人で今後の日程を話し合った。ガザック氏は明日の練習を休みたい、神田錬成舘の朝の訓練は2回は中止と小生が決定した。巨体の(元KGB)氏と二人で最後の日程を決定した。ここまでの訓練時間は12時間半を記録していた。残り時間は二日で四時間の残すのみであった。

小生の張りつめた気合いはここで切れた。彼等二人に二人の帰国がるまで酒を断つと約束していた断酒を解くことにした。露人からの贈り物ウオッカの封を解く。真夜中(ノーチ)

17日土曜日、午後五時半芝パークホテルへ迎えに上がる。休む筈だった(カザック)氏も練習に参加するといって来た。足の状態が良くなって来たらしい。午後六時日本橋浜町道場へ案内する。小生の初伝の前切の抜付に巨体の露人は眉をしかめ、目は碧眼と成る。小生の1520g26寸、身幅4、3?の切っ先が風を切り泣いているらしい。小生の業も最高潮に達しているらしい。

夜(ノーチ)露人一行と芝パークホテルでの食事会で、月曜日に古都鎌倉へ付き合ってくれないかと頼まれ、快諾した。また今年の10月再度モスクワへ再訪問を促されたが小生は東京での道場が忙しく、片道13時間の航路はご免被る、片側にいた弟子を差し、英語のできる彼を送ろうかと、通訳人を通して伝達したが、彼等二人は先生でなければ駄目だと諦め切れない面餅であった。小生は心の準備だけはして置こうと説明して約束はしなかった。

18日日曜日、午後2時露人一行を八丁堀体育館へ案内する。(カザック)氏は婚約者を同伴して来日最後の練習に入った。通訳人なしの英語と露人語の混合で道場は勇たった。小生の業も最後のラストランと激しくなり、抜きつけは最高潮となりデイミトリルーシーは碧眼を更に窪め顔は無表情か諦めの面餅に陥っていた。さすがの元KGBルーシーも足にきたのかアップと合図すると、業以外は立って観戦した。二時間の鍛錬はアッと言う間に終わった。さらに露人二人は延長一時間を申し出た。彼等の鍛錬は六日で17時間半を完了することになる。門人の英訳でガザック・セルゲイ氏へ伝える。流派の神髄は全てをマスターして初めて分かる。「相打ちでも相手を瞬時に倒せる業がある。安心せよ我が流派450年」この後は一行と共に、ダーチ(娘)と通訳人パーシャが待つ浅草へ小生も門人二人で付き合う、一行は浅草釜飯へ、彼等の離日日程は221110分成田発442便JALである。残り滞日期間は19日鎌倉、20日日光東照宮、21日完全休養に当てられ翌日離日を為す。

19日月曜日、本来なら神田錬成舘での朝の最後の練習予定であったが、今日は通訳のパーシャ(留学生来日半年)を伴って、(ウートラ)朝9時、東京駅から横須賀線で鎌倉へ、古都鎌倉は晴れ渡り春の日差しは、鎌倉鶴岡八幡宮の参道を写し照らしていた。「パーシャここを行くぞ」八幡宮をバックに参道の入り口で記念写真を写す。「パーシャこの参道を頼朝が馬に乗って駆けていたんだよ」いつ頃ですか?「西暦1100年頃だよ」早速パーシャが通達する。露人等の顔が日の光の下で輝く。参道を終えては八幡宮の入り口の石橋の前で宮を後ろに記念写真さらに両脇に通用橋を渡り宮の境内へ、露人二人に八幡宮の札と、家内安全の札をディミトリルーシーへ、商売繁盛の札をガザックセルゲイルーシーへ手渡し、階段下の水で手と口を清めて八幡宮の階段を昇、横にそびえる銀杏の巨木を見上げる露人等のセルゲイ「ワンサウザント」と小生が放つと彼は合点よろしく、カメラを構えて交替の記念撮影。「この銀杏の木の影から飛び出した刺客により頼朝の息子頼実は暗殺された。源氏の血は途絶えた。37年前小生が参内した自分には階段が削られこの歴史的悲劇の古事を記していたが石の階段は新しく造り変えられていた」一行は階段を上り詰め鶴岡八幡宮に小生とガザックセルゲイは二礼二拍一礼を行った。カトリックのディミトリールーシーは無関心であった。八幡宮宝物舘へ入館すると露人ディミトリは興奮して「秀吉秀吉」と口走りだした。合戦絵巻物を見ると何でも秀吉である。ルーシーでの秀吉人気は凄い物である。農民出身の秀吉に共感を感じているのだろう。絵巻物に描かれた合戦絵巻は義経の屋島である。パーシャに小生が説明する「義経、頼朝の弟、軍事的天才、ヒヨドリ越え、屋島、壇ノ浦、三月で平家を滅ぼした。その奥島の合戦?」パーシャは伝達する。そして頼朝の政治的天才を説明する「頼朝はこの時に二権分立を打ち立てる。天皇を法王として、武士は政治を担当していた」さらに「頼朝は人身売買を制度で禁じた」通訳人のパーシャは子の単語が訳せずに困っていた。困惑したようである。一行は宮を後に、石橋の脇の池の畔の茶屋で昼食をとる。「先生」ディミトリ・ルーシーが水の入ったコップを挿し出すので、何だと飲んだら透明な水はテキーラだった。目でクルクルと合図して、シクリットと合図する。持ち込みは日本では御法度である。酔いが回ると彼等二人は居合の話である。「あの初伝、中伝、奥伝」あの中に大事な物が詰まっている。その中から見つけよ。自然に分かってくるよ。それが修行だよ」パーシャに伝達する。分かりました。最後に彼等ルーシーの望みは海を見ることであった。北のモスコウには海がない。江の電で江ノ島へ彼等は、海へ飛び込んだ。帰りはイタリアレストランで乾杯。この後羽生へ向かう小生へ本場のウオッカをお土産にくれた。ウオッカの言われを聞かされた小生は「スピリッツ・命の水」と告げた。パーシャは先生何で英語のスピリッを知っているんですか?さらにパーシャは続ける「先生、人身売買とは」意味を訪ねる「人間の売り買い、人間ビジネス、ノウ、ニェート」腕でバツを組み「頼朝」彼等のショックは大きくこの後に何を聞くのか楽しみであったが、東海道線品川駅で別れた。一路羽生へ。20日火曜日、毎日道場巡りの小生にも休みの日はたまにある。それが入学式卒業式の日程に巡り会うと学校の体育館は休館日である。彼等も今日は日光東照宮へ参内している。娘のダーチと婚約者は京都巡りは終わっていた。よる先生浅草です。「そうか明日明日夜」会う。

21日水曜日、午後浅草リバーサイドスポーツセンターでの稽古中「先生今浅草」分かった夜夜ノーチ、パーシャホテルに行く、八時、分かった。」午後八時彼等に渡すお土産を持ってホテルを尋ねる、明日は帰郷の日である。小生は1500gの赤樫の木刀一本をル―シー・ディミトリへ手渡す。さらにカザック、セルゲイに手製の袋竹刀を渡す。彼等はまさか袋竹刀を頂けるとは思って見なかっただろう、小生もこれは品切れと通達していた。ホテルの外で最後の晩餐会イタリアレストラン、氷水で乾杯、武士道に乾杯、水でも難度も乾杯を繰り返していた。店の者はアホかと思っているだろう。

通訳のパーシャは電子辞書で「頼朝」小生に確認をとる。「奴隷」の漢字が表示されていた。それを伝達する。彼等全員は小生の顔を見つめる。羨ましい顔立ちである。彼我祖国と日本の歴史を対比する。興奮したディミトリは先生ニコーニコーとまくし立てる。「何じゃニコー」新宿のニコー裏のことかな?その内栃木。「おうニッコウ、日光東照宮」隣のガザック・セルゲイにニコー・ノウ、日光東照宮と発音を訂正した。まったく何がニコーだと笑い転げた。皆大笑いである。その後にカメラに収めた日光の杉の大木を見せてくれた。四百年位かな。彼等は古木が残る日本人の国は素晴らしい、パーシャは訪ねる「先生日本はなぜこんなに素晴らしいのですか」わからん。彼等の祖国における森林は暖炉の燃料として伐採され、また帝政ロシアの動乱(イワン雷帝の死亡後)度重なる外国との戦争さらなるロマノフ王朝崩壊後のソビエト連邦、独ソ戦争において国土は荒廃し森林は焼き尽くされたのか、日本国内に生存する巨木等彼等の国には存在しないであろう。通訳のパーシャは鎌倉八幡宮の銀杏の木が千年の樹齢とこの場で知ったらしく改めて驚いたようである。小生が神道を知っているかと訪ねると「知っている」神道は森と泉を大事するんだよと鎌倉で説明していたので飲み込みは早かった。元秘密警察のティミトリはアメリカに任務でいたらしく、「先生…世界の国で独立を守り続けている国は日本一国だけだ」と説明してくれた。そんな説を初めて聞く小生は本とかよと聞く始末であった。返答に窮した小生の答えを待っている彼等に「さむらい、武士がいたからだよ」と答えてやると彼等は「日本武士道精神に乾杯」と水の入ったコップを掲げる。「日本人の良い所は和魂洋裁で良い所は取り入れ、悪い所はスパと切り捨てる」「スパて分かる。スパッとシーバじゃないよ。切る事をスパと切れる刀でスパッと切る。良い所をスパッと取り入れる。悪い所はスパッと切り捨てるこれが日本人だよ。」通訳のパーシャは改まり先生鎌倉の一日は先生の歴史的説明で有意義な一日を過ごさして頂き皆さん感謝しておりますと挨拶の弁を述べた。私も皆さんが来日すると言うのでロシアの歴史に目を通うして参りました。モンゴル・タタール・コサックと肉屋の親父ミンニンと… 隣のセルゲイ氏がガザックとコサックをガザックと発音して、初めてセルゲイ氏がガザックの末裔である事を知りました。何分かまくしたてる氏の言葉は激しくパーシャも通訳してくれませんでした。彼の言葉を私は背広のパケットの口を開いて取り込む仕草で応対しました。ただガザックは白と赤に別れ危険分子として抹殺された悲惨な運命を辿る位しか小生の知識では彼の苦悩に報いてやれる事は出来ないと判断した私は、…「ヒストリー歴史」指で線を引っ張る仕草で、「長い歴史の間には、良いことも、悪いこともあるさ」その内ロシアも良くなるよ、ルーシーにはルーシーの決まり文化がある。ヤンキーにヤンキーのルール文化。イーポンスキーにもルールと文化がある。これはどうする事も出来ない。辛抱せい。と締めくくると皆神妙な顔でうなずいた。ルーシー達はまたカップを手に武士道乾杯、先生乾杯と水を飲み込む、最後にソリーの歌をチンチンチンはしれトロイカ…彼等の歌声は地底の底から響く様な苦難の民族の怨念の悲しげな戦慄で聞く者の五感に衝撃を与えるようであったが「まさに大地の歌ユーラシアの歌である」とパーシャに伝えた。小生はホテルのタクシー乗り場で別れた。アゲイン 一行は明日11時に飛び立つ。

筆者は翌日八重洲のブックセンターへ飛び込みカウンターで、「コサックのロシア」中央公論社・戦う民族主義者の先兵・上田 樹氏の本を手に受け取った。子の本を数日で読み上げた結果。若き日支那大陸の満州馬賊に恋いこがれていた小生は難なくルーシー馬賊のガザックの運命を身近に感じる事が出来た。ルーシーを語るにはガザック。ルーシーを知るにもガザック。ガザックを知らなければルーシーを語る事は出来ないのである。ガザックのセルゲイ氏との再会を楽しみに。 頓首…

2007327日 詳伝無雙直伝居合 易水館 若 浦 次 郎


道場だより/易水館館長

Newsletter from Dojo (From Russia with spirit)

It was mid February, 2007 when I received an email from Moscow, Russia.
"We'd like to visit Tokyo for trainings of the true Muso Jikiden Iai, twice a day for 10 days in March or April." I replied to the email in good grace.
Will they be able to learn the truth of our tradition and spirit? I shall see how much they progressed since my last visit to Moscow in October, 2006. That time, I granted a hundred DVDs (beginner, and intermediate ranks).
On Tuesday, March 13th, I went to see them at the Narita Airport. They were supposed to arrive at 8:30 AM by Japan Airlines 441. I waited for 40 mins with 2 translators. There came 4 of them, with Dmitry's daughter (дочь) and Sergei's fiancee.
I handed them a schedule through the translator. They first requested to practice with the 1.2 kg Iai-to, the one I brought to Moscow. But I convinced them to practice with the 1 kg sword. With less burden, they would not hurt themselves, and learn more forms quickly. From that night (вечер), we started the lessons. Through the translator, I told them to speak up, in Russian "не знаго", when they do not understand the meaning of the forms.
The daughter and the fiancee will go their way. I was introduced to them in the bus back to Tokyo. I greeted with them in Russian, "Очень цриятно." This has a little episode from my last visit to Moscow in October. Playing tricks on me, this greeting sounded "oi-chi-ni" (one-two) So, it was easier for me to pronounce this.
After the introduction, I asked "is she in the 6th grade?" No way, she is entering a college. I had to hide my embarrassment behind a smile. The fiancee was taller than I, and looked like a supermodel.
In the bus, I confirmed with the translators some Russian words that I wrote down in advance. I first thought there wouldn't be any translators. I got off at Hakozaki, telling them that I would take a nap (спать). I gestured for them to do the same in their hotel.

1) The first lesson, from 6PM at the Kuromon elementary school, spent 2 hours to adjust their beginner rank forms. Just to let you know, stretching is not included to the cost.

2) Second day, Wednesday 14th, the lesson at Kanda, Rensei-Kan Dojo started from cleaning at 10AM. After that, we paid homage to the Shinto altar. I adjusted how they meditate and bow to the sword. I instructed 3 forms from the intermediate rank. It took an hour and half.
After the lesson, we went to a Chinese restaurant for lunch. One of the Russians did not eat any meat, so I ordered 4 vegetable ramen noodles. When he found a little piece of meat in the soup, he rejected, (нет) eating it. No broth from meat nor fish; I let him try some white rise and pickles I ordered for myself. He had them. He then ordered tofu salad.
Although it was scheduled to practice at the Asakusa Riversite Sports Center, I took them to the Kaminari-mon (Thunder Gate) for sight-seeing. They seemed to extremely like this area, since they repeatedly visited Asakusa in later days.
2:30PM, as I took them to the dojo at the Asakusa Riversite Sports Center, they were impressed to see the genuine Japanese style dojo. All three of them admired, "хорошо."
For 2 hours without any break, they practiced the intermediate rank, tatehiza (raised knee). On the left heel, place the anus and put all weight; it is a very difficult way to sit. It's also called Yoroi musha way of sitting. This style comes from the Ise school of etiquette, and court nobles sat on the opposite way. It's very hard even for a Japanese to sit for 5 seconds. I, myself, couldn't do this for a second on a wooden floor. I recall those days trying to sit longer by seconds. Even more so for foreign people in a foreign land. At first, 3 of us lined side by side and mopped the dojo. I showed them how much dust those mops gather after cleaning. Through the translator, I said, "dust causes rust to the blades. The blades are slithered with oil, so suck dust. That is why the Japanese likes cleaning. Do you get it?"
Since they've finished Yokogumo, Tora-issoku, and Inazuma in the morning, I taught the 4th form, Ukigumo. This went easy. They've shortened some parts of Oroshi, thus looked unsightly. Perhaps, they tried to keep up with the speed of my performance from the DVD, and that led to wrong the form. When I corrected the foot-works, the form completed in its right way. They had practiced 4 hours a day in Moscow. 2 hours went by quickly. I gave them a ride to their Shiba Park Hotel, passing Kanda-Jinbocho, the Yasukuni Shrine, the Imperial House through Tameike and the Russian Embassy.

3) Thursday 15th, I went to the Shiba Park Hotel to pick them up at 9AM. I told the female translator that they will practice the advanced rank from today, getting into the unknown world… I had them understand the difference between Japanese Bushido and Western knighthood. "The origin of Bushido is this. Do not harm women and children of the enemy. This happened in 900s. It is totally different that knights plundered, raped and killed all. Do understand that."
From today, I give lessons without a help of the translator. 3 of us went to the Kanda Rensei-Kan Dojo for an hour and half. We aimed to finish up the beginner and the intermediate ranks. After lunch in Asakusa, I took them to Shobudo in Suido-bashi. They bought Dogi (top-uniform) and ordered Hakama (bottom-uniform) because they don't fit in the regular sized ones. Both wear black Dogi and short Hakama, so I explained to them that only boys or girls wear short Hakama. Now they seemed to be embarrassed about that.
I urged them to take a nap, and also told them that I would pick them up at 6PM.
From 7PM, lesson started at the gymnasium at Sei-shin Junior High school, Edogawa. They started practicing the advanced rank forms. With 5-minute break, they practiced the forms over and over for an hour and half. One of them, 186cm tall, was beginning to feel numbness to his feet. I let him stand while he observed my performances. He only sat in Tatehiza when he performed. He devoted himself to practice.
Another Russian, weighed 140kg, endured with patience on his left heel.
How impressive it was. They suffered through the hard training for 90 minutes. This huge Russian asked me if he could hold my sword. After couple of swings, he realized it was too heavy for him.

4) Friday 16th they again endured the 2 hour lesson at the Asakusa Riversite Center from 1PM. The six-footer Russian wrapped his ankle with a cloth, nearing to his limit. He is a descendant of the Cossack. He spends his time riding his own horse and is familiar with Cossack sword fighting.
The other huge Russian is a former KGB agent.
We went out for Asakusa sight-seeing after the lesson. Then, another 2 hour training was waiting for them in the evening. I gave thought to their supper and took them to the food section at the Matsuzakaya department store. The former KGB agent, Dimitri Iwanov 41 year-old, especially likes meat and sashimi. He bought Sushi for himself, and fish pastry for the vegetarian Cossack, Sergei Chechernicov 39 year-old. I bought Inari-zushi, and Futo-maki. We unwrapped our food in front of the gymnasium, Kuromon elementary school like we are having cherry-blossom viewing party. I had them have some of my sushi. They both loved them very much, especially the vegetarian Mr. Cossack.
After this supper, we started the lesson with my other apprentices. The forms, beginner, intermediate and advanced rank were directly transmitted from the past. Two of them were feeling limits to their feet. Mr. Cossack observed in Seiza, while Mr. KGB persisted to Tatehiza. His beginner and intermediate rank performances stunned my apprentices.
After the 2-hour lesson, we talked about our schedule, together with their family, the translator, and one of my apprentices who understands English. Mr. Cossack wanted to take a break for a day, so I decided to cancel 2 morning lessons at the Kanda Rensei-kan Dojo. I talked with the huge ex-KGB agent about the last training. The training had been 12 and half hours so far. 4 hours in 2 days were left.
My tension was released somehow, and I decided to break off from drinking abstinence which I had sworn to keep during their stay. Midnight, (ночь) I opened the bottle of vodka the Russians gave me as a gift.

5) 5:30PM, Saturday 17th, I picked them up at the Shiba Park Hotel. Mr. Cossack who was supposed to take a day off joined us. He seemed to feel better on his foot. I took them to the Hamacho-Nihonbashi Sports Center at 6PM. The huge Russian frowned as he observed my Nukitsuke (drawing) of the "Maegiri" (forward cut). It seemed the tip of my sword, 1520 g-78 cm length-43mm wide, made a hissing sound. My performance was hitting the high gear.
During our supper at the Shiba Park Hotel at night, they asked me to accompany with them to the old city, Kamakura. I agreed willingly. They also asked me to visit Moscow in October again. "I would be busy in Tokyo and I wouldn't like 13-hour flight, so why don't I send him (pointing at one of my apprentices by my side) instead." They looked wanting to persist my visit. To this request, I did not give them consent although I would try to be prepared.

6) 2PM, Sunday 18th, I took the Russians to the gymnasium at Haccho-bori for the last training. Mr. Cossack brought his fiancee to the practice with him. With no translators for the day, we used bit of English and Russians. As my performances got vigorous and Nukitsuke went to the top gear, Dmitry the Rus showed expression of resignation; his green eyes more sunken. Ex-KGB as he was, he might have felt some pain on his foot. He was standing while he observed. Two-hour training went fast. Two Russians asked for another hour practice. That meant they practiced for 17 and half hours in 6 days. I had my apprentice tell Sergei the Cossack in English that they would understand the truth of our school only after they master all. "There are techniques to defeat the other in a split second. Be confident, our school survived for 450 years."
After the training, we met with Dmitry's daughter and the translator Pasha at Asakusa. There, we had some Kamameshi. Their departure was on 11:10AM, 22nd from Narita by the Japan Air Line 442. They were supposed to visit Kamakura on 19th, the Nikko Toshogu on 20th and relax on 21st before the departure.

7) Monday 19th, instead of practicing at the Kanda Rensei-Kan, we took the Yokosuka line from Tokyo to Kamakura at 9AM (утро) with the translator, Pasha (a Russian student in Japan for half a year.) It was a clear day, sun-ray shone over the pathway to the Tsuruoka-Hachimangu, Kamakura.
"Pasha, we'll go this way." We took photos at the entrance of a path. "Pasha, Yoritomo used to ride on his horse along this path." "When was that?" "Around 1100." He translated it into Russians. They were all lit up under the sun. We took pictures by the stone bridge at the entrance to the Hachimangu, then proceeded to the precinct through the side bridge. I gave two Russians the wooden charms from the Hachimangu, a charm for the welfare of the household to Dmitry, and one for successful business to Sergei. We washed our hands and mouth at the bottom of the stairs. As we climbed the stairs, the Russians looked up the lofty gingko tree on the side. I said "one thousand." They took turns in taking pictures. "From behind this tree, an assassin sprang out and killed Sanetomo, Yoritomo's son. With that, the Genji family line was extinguished. When I visited here last time in 37 years ago, chipped stairs was still kept the way it used to be, leaving a scene of the tragic history, but they were replaced."
We climbed up the stairs. The Cossack Sergei and I prayed in the Shinto style, but Catholic Dmitry did not show interests. As we entered the Repositorium, he started to burst out "Hideyoshi, Hideyoshi!" from excitement. Every time he saw battle picture scrolls, he thought of Hideyoshi. Hideyoshi is very popular among Russians. Perhaps it's because the Russians feel some sympathy toward peasant-origin Hideyoshi.
The picture scroll showed scenes from the battle of Yashima by Yoshitsune. I explained to Pasha. "Yoshitsune was a brother of Yoritomo, an war-genius. He destroyed Heike family in three months at wars of Hiyodori-goe, Yashima, and Dan-no-ura. On this scroll, the battle of Yashima is depicted." Furthermore I explained about Yoritomo's excellence in political capacity. "Yoritomo established separation of powers, the emperor as religious leader, and the samurai-warrior as political leader. Also Yoritomo prohibited slave trade." Pasha looked puzzled and couldn't translate.
We had lunch at a tea house by the pond. Dmitry handed me a glass of water, so I drank. The clear liquid was tequila. He made a sign to me with his eyes and said "secret." It's prohibited to bring in own drinks. As tequila hit them, all they talked was about Iai. I told them, "Important factors are within those beginner, intermediate, and advanced rank forms. Find them. You'll see as you practice and that is the ascetic training."
Their last wish was to see the ocean since there is no sea up north of Moscow. We headed to Eno-shima by the Enoden line. They jumped into the sea water. I toasted our glasses in an Italian restaurant. As I was to go to Hanyu after this, they gave me a bottle of vodka as a souvenir. I said "spirits" when they explained about vodka. Pasha was surprised that I knew this English word. He asked me about the meaning of slave trade, so I explained, "No selling and buying humans, no human business. нет." They looked shocked. Although I was interested what they would ask me next, but it was time for me to go. I parted from them for the day at Shinagawa and went to Hanyu.

8) Tuesday 20th, there are certain days I can take a day off. When schools are holding entrance and commencement ceremonies, gymnasiums are closed. The Russians visited the Nikko Tosho-gu. Dmitry's daughter and Sergei's fiancee had already visited Kyoto. At night, they called me from Asakusa. I promised them to meet with them tomorrow night.

9) Wednesday 21st, while I was at the Asakusa Riversite Sports Center, they called. So I told them I would visit them at the hotel at 8PM.
I went to the hotel with souvenirs in my hand since they would leave tomorrow. I handed a 1500g red-oak sword to the Rus Dmitry, and a hand-made Fukuro-jinai, a bamboo sword covered in leather to the Cossack Sergei. They wouldn't have imagined me to give this bamboo sword. I told them previously it had been out of stock.
We had the last dinner together at an Italian restaurant, toasted to Bushido over and over, with iced water. Staff at the restaurant must have thought we were dumb.
The translator Pasha asked me for a confirmation about Yoritomo. The electronic dictionary screen showed the Japanese word "Do-rei (slaves)." As he translated it, the Russians looked at me with envy. They compared their history to our Japanese one. With excitement, Dmitry burbled "Nikoh, Nikoh." I wondered what it was. Was it Niko-ura in Shinjyuku? Then they said "Tochigi." "Now I see. Nikko. The Nikko Tosho-gu, not Nikoh." I corrected pronunciation to Sergei at my side. I laughed and we all laughed. They showed me a photo of a towering Japanese cedar tree. It might be more than 400 year-old. They praised Japan where ancient trees remain. Pasha asked why. I wouldn't know.
Woods in Russia cut down as fuels for furnaces, and also land was devastated by upheaval during Russian Empire (after Ivan the Terrible), wars against foreign countries, Soviet Union after Romanov Dynasty collapsed, and the German-Soviet war. They wouldn't have big trees remaining as in Japan.
Pasha was amazed to know the gingko tree at the Hachiman-gu in Kamakura is a thousand year-old. I asked him if he knows about Shinto religion. He got it quickly as I explained him we regard woods and springs highly in Shinto.
The former secret policeman Dmitry used to live in the US on his duty. He told me that Japan is the only country which has kept its independence in the world. Is that so? I didn't know that. As I was at a loss for words, I told them it was because we had samurais. They made a toast, with water-filled glasses, for the spirit of Bushido.
"Best thing about Japanese is that we take advanced techniques in while keeping our spiritual nature, then eliminate faults. We cut bad parts like cutting things with swords. That is Japanese."
The translator Pasha thanked me in a formal way; "Sensei, we had meaningful day in Kamakura with your guidance in history. Thank you very much." I actually read some about Russian history, about Mongolians, Tartars, Cossacks, and Minin, the butcher. Sergei by my side corrected my pronunciation of "Cossacks." I came to know he is Cossack-origin. He went on for several minutes about something. Pasha didn't translate. So, I gestured taking his words into my jacket pocket. I only knew that Cossack led bitter fate by getting separated into the white and red, being destroyed as dangerous elements. Knowing that I wouldn't be able to pay for their anguish, I said to Sergei, "there are both good and bad in a long history. You'll have good days in Russia in the future. There are certain rules and culture for the Rus, for the Yanks, and for the Japanese. You can't help that. Have patience." They nodded seriously. Again, they took their glasses and made toast. Cheers Bushido! Cheers, Sensei! They started to sing one of the Russian folk songs, "Troika." Their voice sounded as if it came out from deep under the ground, shocking whoever listens to it. It sounded reflecting their ethnic grudge. I said to Pasha "It certainly was a song of the earth, a song of the Eurasia." I made farewell to them at the taxi stand. See you again! They would leave Japan at 11AM.

10) Next day, I dropped by at the Yaesu Book Center. I bought a book, Cossack's Russia, by Itsuki Ueda, ChuoKoron-Shinsha, After reading through this in a few days, I felt close about the fate of the Rus Cossack since I had yearned to be a Manchurian mounted bandit in my youth.
To talk of Russians, you need to know about Cossack. To understand about the Russians, you need to know about the Cossack. Without knowing about them, you'll never understand the Russians. Looking forward to meeting the Cossack Sergei again.


Sincerely yours
Jiro WAKAURA
Ekisuikan, Seiden Muso Jikiden Iai
27th March, 2007


ロシア紀行

平成十八年十月十五日〜同月十九日までのモスコウ滞在記より。

成田空港を午後12時に飛び立つ、時差六時間を脳裏に機内に座する、12時間の旅は始まった。アエロフロート機は北へ、日本海上空を横切り、大陸を北上して、シベリア平原を西へ、日本から北北西へ進路をとる。飛行航路は機内の映像で映し出されていた。

居合刀と荷物を手に、渇き切った北の大地、灰色のモスコウ空港に降り立つ、道路は片側五斜線で併せて十車線の道路である。不思議なことに人が横断する横断歩道が皆見当たらないことであった。

ホテル・コスモスのロビーに露国居合ん責任者と刀剣作刀者二人の訪問を受けて、夕食会談し、露人作刀の刀剣を説明された筆者は、日本刀に負けないといわれる露国刀剣を拝見する為に早速責任者の自宅へ急追した。高層団地のエレベータは三人乗りで、1DKの彼の自宅へ、寝室のベッドの横には、ところ構わずに手製の刀剣と鞘、柄まきが立て掛けられていた。刀剣は切っ先を床に突き立てたように立て掛けられていた。これは危険を避けるために逆さに立て掛けられているものと思われる。

翌日、雪が落下する。摂氏一度の寒気の中、日本時間の月曜日午後より、モスコウの道が敷き詰められた道場で、畳を上げて板張りの道場へと変更された。道場の入り口には日本武道かが訪問したことを記念する写真が張り巡らされていた。両国国旗の間には、柔道の嘉納師範、合気道の植芝、空手の大山等の写真が啓示されていた。この道場は柔道と空手が主体らしく、居合人の訪問は筆者が始めてのようであった。訪問の目的は露国居合人の要請による。正伝居合と露国刀剣の切れ味の試し切りであった。その為に畳のまき藁三本を機内に積みこんだ。露人等の試し切りは簾を水に浸した代用品であった。これが乾燥すると以外に堅く、指で触れてみると、真剣の刃が欠け落ちる感がしていたが、水に浸すと柔らかく危惧の念は払拭された。

彼等の自国刀剣の切れ味に対する思いこみは激しく、コサック騎兵の馬上でのサーベルの技巧にも明るく。日本刀に切り負けない自負を誇示していた。顕微鏡による粒子の結晶まで説明され、筆者も金属の結晶を手に取って見た。粒子は縦の粒子で、日本刀のおり返し鍛えた地肌とは異なる説明を受けた。鉱物の品名は「ユズコウ」というらしく、インドからもたらされた事が通訳の説明で分かった。日本のタタラ製法と々であるらしく、作刀は日本刀と同じく素延製法であると説明を受けたが、鋳型に流し込む鋳造製法なのか返答は釈然としなかった。

この日は、露国居合人と、正統正伝無双直伝英信流の初伝の業法の見せ比べをし、て、彼らにとっては「うそっこ」居合との決別か、継続かの決断の日であった。

彼等の居合は神伝流で、その業を拝見すると全く粉飾された居合型で誠に嘆かわしい一言に尽きる光景であった。彼等の振りはガチガチで、抜きは抜剣で鞘の内の極意は殆ど知る由もなかった。彼等は貪欲で撮影装置をセットして、筆者の初伝業を撮影した。

十人いた居合人の一人一人を初歩の抜き付けから指導しなければならなかった。筆者はこの撮影した業と、うそっこ居合とを見比べてどっちを選ぶか、自分らで決断しろと、突き放した。最後に彼等が試しているロシア簾のまき藁を切ることにした。ロシア刀剣(ユズコ)で、まずは両手袈裟切り、下から片手逆切りでヤンワリと切って見せた。切れ味は分からないので、日本から持参した畳のまき藁で切れ味を見ないと分からないと説明して、翌日の試し切りを約束した。

この後の夕食会は各自の刀自慢で、著者の持参した写真を見た彼等は、固唾を飲んで写真に見入っていた。筆者が持参する予定だった二尺五寸五分、重量1,600グラム、柄九寸三分の相州伝の出来立ての刀、日本刀の迫力に愕然としていた。彼等の所有している細身の刀と、初めて見る日本刀の反りと幅に見とれていた。翌日の試し切りを約束して彼らと別れた。別れた後に「この気を逃すな」とばかりに、急遽クレムリンへ直行する。「赤の広場」は夕日に照らされ、ヨーロッパ文明とイスラム文明の混同した建物は、泰然と建ち並ぶ、屋上の紺色のアーチはジンギスカンの帽子が連想され、その事を口にする著者に訝しい顔つきを繰れる通訳士であった。赤の広場の奥に円形の丸い台座に興味を引かれた著者に、通訳士はあそこは処刑場の台で何万人の首が跳ねられた場所で亡霊に取り憑かれると行く事を止められる。 二日目の道場の畳の上には、露人作刀の刀と日本刀が数十本横たわっていた。ほとんど細身の長どすタイプの代物であった。ロシアの刀剣愛好家と収集家は日本刀剣の骨董的価値観を知り抜いている訳で、準備中の著者の元へ刀剣鑑定を求められ、苦慮した。筆者は鑑定人ではなく、刀の使い手であると説明する。中には日本ツアリーからロシア皇帝へ寄贈されたといわれる日本刀の鑑定と値段を求められた。

 ロシアでも刀剣は高く販売されていて、ロシア産刀剣も拵えつきで200万円もする高価なものである。その滞貨に値する切れ味の試し切りの希望者が著者に託されるのであった。「勿体無いから」と言って試し切りを断るが最後には試し切りをしてやって、切れ味に納得して歓喜の顔に安堵の表情を浮かべていた。

 この時に彼等が試し切りに使用する刀剣は意外に重く、チョボイ日本の居合人は太刀打ち出来ないものと実感する事になった。幸い正伝の神髄を標榜する筆者には運良く、1、6キログラムの真剣を抜き払っていたので安堵した。歴代宗家に心の中で感謝の念を念じたものであった。

 さて合同練習の後の、試し切りを、変更して早速試し切りに入った。トップは著者で「ユズコ」ロシア刀剣の切り味は鋭く、日本から持参した五段締めの畳のまき藁は七部の力で三つに落下した。さて次はロシア産簾の倍巻きの直径20センチの試し切りを試みる。簡単に三つに切断された。次はステンレスの刀剣は八分の切れ味であった。次は露人所有のアメリカ在住の日本人作刀家の刀はかなり重く1、4 キロクラス。片手横一文字を軽く右から払うと八分切りで失敗、気を込めて返す刀で左から右に横一文字に返すと、お椀がひっくり返るようにパクリと、後方に返る見事な一撃であった。

 この日は、スポーツジャーナリスト二人のインタビュウを受けた。日本の武道研究に造詣が深く、彼等は真剣居合道が日本の武芸の最高峰に位置する事も認識して、筆者に敬意を表してくれた。ここで日本武士道の美学(伊勢流)を詳解し、茶道、香道の道を説明する。 三日目は、最後の合同演武で、ロシアの国営放送の撮影とインタビュウを受けるためなのか、通訳士は注文を付けて来た。筆者の手抜き居合に、今日は先生力を入れて下さい。その要望に敵うべき、少し気を込めた筆者の演武に通士は満足してくれた。

筆者の力の抜けた演武を「赤い紅葉の落下」を連想したと言うインタビュウ者は、紅葉兵法と問いかける。業が枯れていると言う意味であった。また彼の質問は日本武士道の存在を確認したく。筆者は「そんなものは存在しない」ときっぱりと返答してやった。

最後に露人居合人達は筆者の門下生となる事を国営放送を通じて宣言した。この日は露人居合人達との別れの日で、筆者には翌日の帰郷が待っていた。最後はモスクワ料理の黒いイクラとウオッカのロックで筆者一人の贅沢で短い宴は終わった。彼等の経歴は元アフガン戦争の軍人あり、現役の刑事あり、元カーゲーべーありで多彩にとんでいた。この国では、軍人、秘密警察、が国のエリートで学者、医者は最下級の職種である事にびっくりするとともに、軍事主義が世界の大国であり続ける事を証明しているようだ。

露人居合人達と別れた筆者は、現職の刑事に案内された。日本剣術の最高峰香取神道流の道場へ案内された。本物か偽物か見立ててくれとの要請であった。鍛え抜かれたスリムな露人は胴着と袴にスンナリと調和して、我々が到来すると、整然と椅子の上に立て掛けられた。流祖の遺影の前に正座し両手を付いて挨拶した。男女一と組に分かれ、薙刀に見立てた棒と木刀で攻防を繰り返し入れ替わる。「ああー日本研究もここまで来たか」筆者は我が故国日本の武道アヤウシ。故国日本の現状が脳裏を過ぎる。

翌日はモスコウ、世界の武器祭りの会場を見学する。屋上はガラス張りそこに区割りされた世界各地の製品が陳列される。壇上には、軍楽隊が五十人、老軍人がタクトを振り、歌う、民謡の戦慄は会場に響き渡る。モスクワ市警の警備は抜かりなく、式典は悠然と終わり、万雷の拍手は響き渡る。

以上 世界の現実。

平成18年10月23日  易水館 若浦次郎



古(いにしえ)より愛をこめて

最初に居合と抜刀術の違いを愛好家のために解説をしたいと思う。さらに、居合と一言で言っても正統正伝の居合と偽りの居合があることを知っていただきたいと思う。
少々辛口の文章となるが古人の嘆きと愛のなせる業と知って欲しい。

●刀を扱えば「居合」、との理解は、大きな間違いである

抜刀術における刀術は、鯉口を切り、刀を早く抜いて諸手で切る。または、片手で抜き切りをする。この時、敵からは刀の切っ先の抜けるのが見えてしまうので、敵にのけ反り躱(かわ)すチャンスを与えるのである。また、抜刀術では、刀を鞘に納める時に柄手を移動させるため、隙(すき)ができるのである。

最近、たまたまテレビにおいてある役者の居合(?)の試し切りを観たが、納刀を見て唖然とした。全く基本が出来ていないのである。鯉口を持つ手にカメラが寄ると、なんと親指、人差し指、中指を立て鯉口に納めていた。真剣が恐かったのか、それにしても鯉口の納め方を知らない。これでは次の抜刀が間に合わないのである。つまり、「残心」が欠け落ちているのである。残念ながら折角の試し切りが台無しであった。

武道を本格的に行うという評判の男優だけに、彼の努力が無意味となるばかりか、マスコミを通じて間違った居合術が伝えられてしまったことも大変残念である。

単なる抜刀術を身に付けたというだけでは、残念ながら居合とは言えず、多少なりと居合に興味を持った者は、居合の所作を初動から終焉までしっかりと見届けて欲しい。いわんや居合を身に付けたいと思うものは極微細な所作もないがしろにできないのである。


●無双直伝英信流正統派の居合より、もの申す

無双直伝英信流正統派では、鞘の中から抜き付け切る。これが居合の抜刀である。敵から見ると、鞘の中から切りつけられるので、刀筋の読みが利かない。「勝負は鞘の内」のゆえんである。

また、納刀においても、刀の柄手を動かさず鞘手を刀に合わせ動かすのである。柄手を動かせば隙を招き寄せ、敵に付け入る隙を与え、敵に負ける。つまり、実践を意識しなければ、居合とは言えない。

さらに、鯉口を納める時も左手の親指の操作において静かに納め、親指で鍔を押さえ、八方の敵に対応するのである。これ即ち「残心」である。

小生はよくテレビにて「暴れん坊将軍」を観るが、最後の納刀の時「パチン」と鯉口を叩き付けるのを聴き、その度毎に「ああ!もったいない」と感じている。素晴らしい殺法の魅力が激減するのである。

あくまでも、実戦を想定する居合においては、鯉口を切る時、納める時、一切の音を消し去る。その意味は、誰しも意味が想像できるであろう。そうして、殺気をも消し去るのが居合なのである。

 

●似て非なる「居合い」に厳重注意!

大変素直な弟子が入門した。体力もあり筋がよく、練習も良く行い、将来が大変楽しみであった。ところが、ある日どうしたことか、とんでもない動きをし始めた。いくら矯正してもぎこちない。

「どうした?」と声を掛けるが、本人は首をひねるばかりである。

よくよく問いただしてみると、当館とは何の関係もない「居合のビデオ」を購入し、それを基に自宅で鍛錬しているという。小生はそれを中止するように話し、すぐにその“居合のビデオ”を持ってくるように命じた。

そのビデオを観て内容に愕然とし、これが堂々と一般に販売されているものだというからあきれて声も無いほどであった。

無双直伝英信流二十一代宗家を名乗るこの男は、胴着、袴は紺色で統一して、殺気むんむん、正座は両膝を大きく開き、金的(急所)は、がら空き。演武にいたってはさらに目を被いたくなる代物である。猿回しの猿が大道芸をしている方が、よほどましである。上体が前方に突っ込んだまま抜刀し、血振は頭のてっぺんで刀を振り回していた。

小生の弟子はこのビデオを購入し、密かに練習して先駆けをと目論んでいたが、進歩どころではなく悪い癖が取り付き、修正も含め他の弟子の倍の日数を要して初伝を収めた。

 本人もこのビデオの呪縛の恐ろしさにいまさらながら感じ入っている。もともとは筋の良い弟子なので、今では正統派の中伝に進むことができ、小生もほっとしている。

弟子達の中には、やってはいけない「悪い例」としてこのビデオを参考にしている者もいる。中にはふざけてこの男の物まねをするものが居り、大爆笑をかっている。あくまでも、初伝がしっかり身に付いた者でなければ、ふざけてでも真似は厳禁である。

このホームページを読む諸君にも同じ間違いをして欲しくは無いので、敢えてこのテープに関しては注意を促がす。

我が正統正伝と同じと思い込み、このテープを購入してはならない。「BABジャパン販売」と記載されており一万円弱の価格が付いている。これが本物と思い参考にするならば時間とお金の損失に留まらない、間違えたものを身に付けることの危険は想像を絶するものがある。

小生想うに、この二十一代を名乗る男の流派は「無双」にあらず、夢に想うの「夢想」流であり、われわれの無双とは夢想違いであろう。同じ無双直伝英信流でも傍系居合と馬鹿にされた居合である。

正式には無双神伝英信流と名乗り俗に下村派、中山博道がここの系列であった。博道が神伝流を名乗り、他の連中は我々と同じ無双直伝を名乗りだしたのである。

 

●居合における正統正伝の意味を問う!

財団法人日本剣道連盟の日本剣道史の中にも公然と中山博道が神伝流開祖と明記している。と小生が指摘すると、弟子は詐欺じゃないかと。

そう、詐欺である。「国民の税金を使い本を出版して日本国民を欺いているのである」

正統派の第十七代大江正路子敬から系譜を捏造して二十一代を真の宗家と偽り世間を騙しているのである。

また別の一派も第十七代大江正路子敬を利用して系譜を捏造して宗家を名乗っている。「死人に口無し」見事なものである。

正統十八代穂岐山、十九代福井、二十代河野宗家等は既に故人となっているが、三宗家に対する名誉毀損罪にあたる。この一派は土佐山内庭園前の記念写真に一緒に大江、穂岐山、福井、三宗家の後方に写っている人物がそうである。小生は、誰とは名指しで指摘はしない。当の本人と一部の人達が分かっていればそれで良いだろう。一部の人達と、その後ろに控える。巨大な悪の存在を糾弾し明らかにすれば済むことである。

 

    土佐居合の二つの流れの形

傍系居合と神伝流の居合では、初伝介錯において大きな隔たりがあるのであるが。彼等は気がつかない、恥を知らないのである。

 切腹、介錯と言えば、武士の首切りで武士の特権である。罪人の首切りとは違うのである。傍系居合の介錯は罪人の首切りを介錯として取り入れている。この特徴がはっきりしているのが、三谷範士段である。「スキージャーナル無双直伝英信流居合詳書」「山蔦重吉神伝流」「加茂治作居合入門」

 傍系居合と正統派の中伝において歴然としている業の形、浮雲、颪(おろし)、岩波において、首への攻撃における左手の使い方である。「人差し指を刀の峰に添え引き切ってはいるが、これではまな板の上の魚も切れまい。神伝流の颪においては敵の膝の上に己の右あし乗せ抜刀しているが甚だ不自然であると言わねばならない。「のけ反らなければ切れないだろう」

 この颪の違いはどこから来たか、重要な資料があるのでお知らせしたい。

 正統第二十代宗家、河野百錬著 「無双直伝英信流居合兵法叢書に記載されている。行宗貞義相伝121ページ第六編長谷川流居合術 中伝書一、「次頁・において敵の柄をふみおとす心にて胸へ抜きつけ勝」と記載されているが、中山博道は何を勘違いしたのか敵の大腿部を踏みつけている。

 また、山川久蔵幸雄土佐居合神伝流秘書(目録 無双神伝英信流)16,17頁第四章英信流居合之事「浮き雲」「山下風」の解説は、昭和の開祖中山博道が考案したという神伝流と全くという程同じである。中山博道の神伝流は傍系居合下村派の丸写しなのである。

 小生は、これら居合の世界における「悪質な嘘」に気がつくまで28年間の歳月を要したのである。

 ある日蔵書の整理をしていた折、昭和50年から愛読保管していたスキージャーナル発行の『月刊剣道日本』の居合道特集に眼が行った。全日本居合道連盟が宗家問題で分裂するのに相前後して、『月刊剣道日本』は居合道特集を組み始めた。その中で中山博道を昭和の剣聖、居合の開祖と崇め立てて行った。博道の写真を紹介して神伝流十五世、別の月には十八世、最後には十六世と豹変していった。この時には既に奥州林崎神社に中山博道を傍系居合の十六世とした額を闇夜の内に揚げてしまっていた。中山博道死後十何年もの月日が経ってからのことであった。

●スキージャーナル社、国民に対する裏切り行為は止めましょう

 
スキージャーナル社といえば、財団法人日本剣道連盟のお抱え出版社である。日本剣道史もスキージャーナル社の出版である。
 財団法人日本剣道連盟は文部科学庁直轄で助成金として年間
10億円以上を国費からいただいている。助成金とは国民の血税である。本部を東京九段の北の丸公園内日本武道館に置いている教育団体である。

この教育団体日本剣道連盟と制定居合の各人が共謀して、国家国民を欺き、世界を欺いたとしか小生には思えないのである。小生は『月刊剣道日本』を信じて永らく愛読していたが、ここまで騙してくれるとは夢にも思わなかった。剣道といえば、国技と言っても良いほどのスポーツである。

制定居合の檀崎は現在神伝流宗家を名乗り、三谷は無双直伝を名乗り、出版し、これもスキージャーナル社発行で、前の加茂治作の居合道入門と山蔦重吉の夢想神伝流居合道は愛隆堂発行である。相撲取り上がりの檀崎以外は剣道(棒竹)団体出身者である。全てが中山博道の愛弟子である。

特にいかれているのは、『月刊剣道日本』において相撲取り上がりの檀崎は「神伝流においては初伝が大森流で中伝は無双直伝英信流を教授している」と解説してるが奥伝については何等の解説もなされていない。では中山博道が考案したという夢想神伝流とは檀崎解説者がいわれていることが神伝流の実体であるのか。気違いじみた、つじつまの合わない解説である。


直線上に配置