居合と試し切り
今日の日本国内での試し切りは、マスコミ報道或いはインターネットなどで時たま拝見する。居合道何々流何段または宗家と偽ったり、家元と豹変したり、額縁を断りもなく神社の内部に掲げ、既成事実を作り上げ正当化し、捏造した宗家が紹介され、抜き手も鮮やかに両手に持ち替えて袈裟切りに藁での巻藁や畳の巻き物をスパッと切り落とす。勿論水に浸した巻藁である。水に浸すのは刀の刃地鎬地を傷より守る為の予防策であると同時に水の比重で切りやすくするためででもある。
我々居合人としては、片手抜き付けで、横一文字切り、袈裟切り、逆袈裟切りと、畳一枚分の巻藁を居合抜きで一刀の元にスパッと切って貰いたいと願望するのであるが、この手の達人は未だに拝見することが出来ない今日である。畳半畳の巻藁五センチか六センチの抜き切りは拝見するが、この切り方も刀身を一旦停止した切り方である。この半畳の巻藁を切るにも、柄手を左に振出し弾みを切っ先に伝えてヤットコさで切る。見ていて無理を感じるが本人にしてみれば至難の業であろうと感じられる。電光石火の早業で鍔元からの居合切りは未だ見る事は出来ないのである。“これを試して過去に幾人か鞘手の指数本を切り落とした居合人が何人も存在する。間違った抜き付けを指導されていたのである。”
少年野球のコーチ監督は素人でもできるが、居合は素人のノックやキヤッチボールの指導の様には行かない。模擬刀数か年の業でも無理が効じるのである。“天才以外は真剣の鞘手の恐怖を克服するには何十年の歳月を要するのである。”
最近では三段締めの畳一枚分の巻藁を床に立て、両手で三回連続で切っても落下させない業の達人もいる。この達人の刀は厚みがなく、重ねが薄く作成して畳切り専用に作刀された刀剣である。この達人は刀の研ぎも旨く、薄刃の切れ味は鋭く、諸手では意図も簡単に切れるようであるが、居合切りの片手切りは不可能である。平成の新宗家と名乗る人物である。もし仮に片手抜き付け一刀で、横、袈裟、逆と鮮やかに畳一枚分の巻き物を切り落とすことが可能ならば平成の時代は新流派と新宗家の乱立到来である。
この基本といわれる振り、抜き付けは各流派の掟が基本となっている筈である。この様に新流派を意図も簡単に立ち上げるは、日本文化に対する冒涜である。
日本四題偽書、土佐神伝流秘書を作成したと言われる山川(前名 錠八)や十六代宗家と額を日本居合神社に無断で掲げた中山博道等の後継者でもあり、厚顔無恥の謗りを逃れられない所である。この様に詐欺剣法の標本が日本剣道形や制定居合と新しい業を考案したように偽装し青少年に押しつけ渡世の玩具とする。実態は他流の業をパクリ金銭の詐取を目的として立ち上げた新武道心理教と確定され、国家と民族の恥の上塗りを招き寄せるだけである。気で相手を吹き飛ばすと売り物の合気係教理武道やオカルト武道と一緒くたにされては適わない。地道な日々の努力を怠らない武道家は困り果ててしまうのであるが、今日の国内の武道家は油断も隙もあった物ではないのである。ここに古代より何百年と続く刀剣の抜き付けと振りの基本が古武術に秘められているのであるがこの基本精神を忘れては成らない。業無き者が精神論に走り易く、歴史無き者が精神論に寄り掛かる。
話は横道に逸れたが、我々居合人が試刀の為に畳と向き合う時に、切れる時もあれば切れない日もある。その度に畳の厚さ太さと向き合うのである。また費用が掛かる研代と錆落としの難題に行き当たる。その為に研の技術と錆落としの技術を克服するための独学が必要となり、砥石の専門書と研師の解説を参考に試行錯誤の繰り返しを繰り返す地道な努力が要求される。さらに、試し切りは気候による寒暑との関係で据え物切りの難しさに対峙する。直径八センチと八・五センチの差が切れるか切れないかの瀬戸際で、水の含み具合による重さも関係する。更に三段締めと五段締めも大きく切れ味に関係する。
古畳一枚分の巻藁は直径八センチから九センチ、十センチと三段階に分けられるが、この一センチ、二センチの差が大変な苦労を強いる。更に擦り切れた古い畳と新しい畳のイグサの強度の差に唖然とする。片手切りと両手切りの違いの凄まじさが解って来るには片手切りを繰り返し、抜き付けでの切り付けを研究しなければならない。
ここに間合いと理合が現存する。居合切りと片手切りの違いは鞘の内と鞘の外の事で、柄手と切っ先半径の長さ弐尺余の長さが物を言うのである。両手なら女子供でも切れる。ダブル巻トリプル巻と意図も簡単に切り落とせるが両手切りは飽きがくるものである。
我々が鞘の内から流派の形切りで横一文字に切ると半分も切れない。これが鞘から抜き出しの片手切りで横一文字に払うと切れる。左右の横一文字は成功する。抜き付け横一文字切りは成功しないが袈裟と逆袈裟切りは成功する。如何に横一文字抜き付け切りが至難の業であるかがお判り頂けると思われる。無雙直伝正伝居合の基本業が前切りの抜き付け横一文字であることが明白に証明されるのである。我々居合人の永遠のテーマである。
巻藁五段締めを刀身の肉厚で切ると巻藁は上か横に弾け飛ぶ、薄いのは弾けず乗っかっている。小生得意の一尺弱の関の山刀による『介錯』に於ける片手形切りは横に八メートル位は転がっている、調子のいい時は切り口より上に浮き上がり、間を置いて床に落下する。傍系居合系列の横一文字半身抜き付けでは畳の巻藁に五ミリも切り込めないのである。居合では無く剣舞の枠内である。
ある刀匠の談話によると最近の剣使いの堕落ぶりに嘆くこと然り。それは筆者が刀の注文依頼の時であるが、参考意見として紹介する。
重ねが薄くて軽量の刀を注文し、ピーピーと羽音が鳴り易い刀を願望するというのである。目眩ましの宗家である。刀匠は情けないと嘆いていた。また、有る有名な切り屋の先生は「藁が切れる刀を拵えてくれ」と、刀匠の親父に泣きつき、切れる刀を作刀して貰った訳だが、親父が有名にしてやったのだと試斬秘話を説明してくれた。これが堕落した日本の剣使いである。或る居合人は試斬に嵌まると居合形が変形すると警告しているが。これは逃げ口上で腕が悪いだけのことである。
刀剣と言うものは切って見ないと分からない、切らなければ刀の善し悪しが掴めないのである。小生らの道場で畳のまき藁の試し切りを何回か経験しているが、その道場での体験と経験を説明すると、手首で捏ねって切り損ない、刀が歪曲していた。足で踏で曲げを矯正した。また刃が欠けたり、高価な刀剣を椅子に当て刃が欠けたり、一般の刀屋で購入した刀剣は切るまで全く分からないのである。また真剣を刀匠に注文して出来上がった刀で小さな枝の竹箒を切ってみたら刃が欠けたり日本刀の脆さに直面するのである。強靭な日本刀を作刀する刀匠と巡り合うのもまた居合人の努力するところである。
ここで二百余刀に亘る試し切りを断行した江戸天保の時代の侍を紹介する。
天保の時代、江戸において剣術三流派を納めた剣使いが、二百余振りの真剣を斬試に試したが、我が命を託するだけの刀剣を見つけ出す事が出来なかった。折れる曲がる欠けるの体たらくで、彼は日記に『渡世の為 人目を惑わす 業のみ 巧みの目利志向 精神亡者』と書き残した。彼は幕臣窪田清音(すがね)の居合の弟子で抜刀田宮流を納めていた。窪田は講武所居合術師範であった。この弟子は剣を捨て刀鍛冶となった山浦真雄である。山浦清麿の兄で弟の清麿を刀鍛冶として仕込んだ後に弟は四ッ谷正宗といわれ、江戸の名工と謳われ、長曽祢興里入道虎徹と並び称された。この四ッ谷正宗の後援者が講武所居合術師範幕臣窪田清音である。窪田が若き刀工(19歳)の山浦清麿を松代藩主真田幸貫公より預かったのは、天保ニ年(1831)の事であった。原因は藩の武器講に推薦したが藩主の意見は古参家老の反対に遭い、代わりに大慶直胤が推挙された為である。
二回目の江戸訪問は23歳の武芸修行の為で、窪田の田宮流居合を習った。天保六年(1835)の時である。窪田は天保の改革で大奥改革を断行して失脚し家録を九割方失う、その為に清麿を長州萩へ送り出す、その後江戸へ帰参して四ッ谷で刀鍛冶として生計を立てる。窪田清音の為に刀剣を作刀し贈る。酒好きの清麿は日に三枡を飲み干すそのため中風となり、注文に応じ切れず、自ら命を絶った。自刃したのである。
清麿の恩人居合の始祖・林崎甚助重信傳を著した剣客であるが。我々居合人は山浦真雄が記した『渡世の為 人目を惑す 業のみ 巧みの目利志向 精神無き者』この命を託す剣、三種の神器を手に入れる為には刀鍛冶の歴史と砥石の研究を怠っては成らない。また偽者居合に洗脳されない為の見識と歴史を世間に広めなければならない。抜刀で指を切り落とさない為、血振るいで頭の皮を削がない為にも洗脳居合には気を付けなくては成らない。
窪田清音は『刀装記』に於いて、目釘についても書き残している。南斜面の日当たりの良い竹の根元から一尺(約30センチ)の長さを切り取り陰干しをして、半分の三分の一の部分を目釘として使用する。堅い物を切った衝撃で興じる茎(なかご)による柄破けを避ける為に茎先に目釘の補助二本目を指摘し、目釘穴は鍔元近くが良く、古刀は茎の中心部で建武の頃より目釘穴は鍔寄りになったと伝えている。
最後に歴史的余談ではあるが紹介しておく。
歴史的名刀は源九郎義経の佩刀『君萬歳』古備前の祖 友成。陸奥の文壽『髭切丸』。九州豊後長圓『膝丸』この刀は源家の寳刀として、改名四度の希代の名剣と伝えられている。多田満仲が罪人を斬ったところ、頭から膝まで切れた為にその名が付いた。源の頼光に至って、大きな土蜘蛛を切って『蜘蛛切丸』と改名し、更に為義の時に大事に土蔵の中に蔵って置くと毎夜唸り出すので『吼丸』又は『獅子丸』と言われ、後には『薄緑』と言われた。
小豆兼光(備前)と六腿切長義。農夫の背から落ちる小豆が刃に触れると真二つに割れるその後謙信の佩刀となり『鉄砲切』と名付けられた。また備前長義の刀は徳川敗軍のしんがりを勤めた大久保七郎左衛門忠世は敵兵三人背後に真近に迫り、横に払った一刀は三人の腿を輪切りにした。この話を聞いた家康が以後『六腿切』と名付けよと命じた。嘘か誠か君次第。
易水舘 範士 若 浦 次 郎
【参考文献】
『虎徹と清麿・佐野美術館創立40周年記念』
『日本刀の華 江戸の名工2006年』
『居合道秘傳』平井阿字斎/昭和55年