1. 居合道正史 〜隠された真実〜
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【4】追記 林家の衰退と下村派について
幕末の激動期における土佐居合
徳川十四代将軍世継ぎ問題に負けた一橋派・水戸斉昭、島津斉彬、松平慶永(春嶽)、一橋慶
喜、山之内容堂等は蟄居謹慎となり、江戸城登城も禁止された。この措置を行っ
た張本人の筆頭は大老伊井直弼であり、安政の大獄が始まっていた。
この時にいち早く御家安泰を諮った土佐十五代藩主山之内容堂は恭順の意を示すために、参政
吉田東洋を用いて、江戸家老以下江戸在勤の家臣を土佐へ呼び
戻し、城内追放と減奉を言い渡した。当然ながら江戸上屋敷頭取である林一門にもその影響は及んだ。
本家御台所の料理人頭取の林家が守る「正傳無雙直伝英信流」と「伊勢流礼法」に付いて、参政
吉田東洋は全くの無知蒙昧であり、保守派潰しの一環で林家の棒録も百八十石から五十五石へ減俸されてしまったのである。
土佐十五代藩主山之内容堂は分家の出であり本家(山内家)の嫡男ではなかった。十二代藩主は
まだ存命で十三、十四代藩主は夭折しており、この十二代藩主
と土佐勤王党武市瑞山が裏で繋がっていた。
藩の保守派の中心である山内本家を敵に回して大鉈を降り下ろし、改革に奔走した参政吉田東洋の
祖先は秀吉に潰された長宗我部の家臣であったため、進駐軍た
る山内家への仕官を拒み土佐を跳散していた。父と共に日本全国を流浪したあげく最後に父の故郷土佐へ行き着くと、学者肌であった吉田は土佐城下に塾を開き
土佐の師
弟を教育していたが、その後土佐藩へ仕えることとなった。
土佐藩では上士と下士の区別が厳然と存在し、下士には家族共々雨の日にも下駄を履けない、雨
や日
照りでも傘を差せないなどの掟があった。
吉田は上士と下士の諍いを緩和する目的で藩校文武館の後に致道館の建設を行ったが、結局上士
と下士の狭間で孤立し四面楚歌となっていた。その上用心棒代わりに雇った傍系下
村茂市のハッタリと詐術に騙され、なんと致道館の居合指導員に下村茂市を抜擢し
てしまった。
吉田東洋暗殺の時側にいた三人の用心棒は何の役にも立たずに逃げた。(初伝大森流しか知らな
かった為?)
正傳英信流居合の事を何も判らなかった吉田東洋こそ、傍系を引き立てる端緒であったといえる
が、皮肉な事に藩
校落成式の夜に暗殺されてしまったのである。(まさに正傳の祟りの
様であった)
明治に入り傍系下村の弟子大江政路子敬は、十六代正傳五藤孫兵衛の弟子となり価値ある正傳を
受継いだ。幕末の乱世が終わり無用の長物と成った時点で初めて
中伝と奥伝を知る事が出来たのである。この真実こそ、傍系の焦りによる系譜捏造と土佐抜刀芸家林家の系譜隠蔽に因る錠八(山川)隠しの真の理由であろう。
傍系派の拠り所と成っている谷村派・下村派の併存というのは事実ではない。残念であるが、往々にして事実に感動は存在しない。
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