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史料2:(土佐山内家宝物資料館所蔵)

 
この史料は、土佐山内家宝物資料館に収蔵されている山内家史料の抜粋である。手書きの史料だ が、原稿用紙には「侯 爵山内」とあらかじめ印字されている。
記事は文化12年(1816年)「十二月十六日剱客林益
之丞政誠歿ス」と題する もので、[成徳記]からとある。
主な内容を列記する。
一、林氏は(抜刀)藝家と して代々長谷川流刀術を伝え、林六大夫守政(正伝9代宗家)、林安太夫政詡(正伝15代宗家)、之丞政誠(正伝12代宗家)は抜群の上手(使い手)であって、門弟も数人いた。
土佐の英信流は御留流で、選ばれたものが学ぶ狭い道であった。
「武芸流派大事典」や「武芸大鑑」にある"林一族は居合に真剣ではなかった。"との言 説は一体どこから来たものか?
二、文化文政の頃には生駒道之丞脩、松井平兵衛誼という師に劣らぬ弟子が居 り、山川久蔵幸雄も「長谷流」を数手学んでいた。
師に劣らぬ弟子が居たにも拘らず、数手学んだ山川が上手であったという記述は無い。
三、(山 川は)益之丞政誠あるいは彌大夫(正伝14代宗家)から、刀の伝授皆伝を渡そ うと約束されたが、分不相応である として受け取りに来ず、林氏と疎遠となってしまった。
数手しか学んでいないのに家を名乗り門弟を取る山川に「皆伝」を渡すから屋敷に来いと いうのは誅殺が目的と推察される。
恐れをなした山川は「分不相応」と理由をつけて土佐から逃げたらしい。
疎遠とはすなわち、山川が十四代から正式に破門された事を示している。
四、その後、山川久蔵は門弟を取り(藝)家を名乗ったため、「長谷川流」の伝書は 誰から授かったのかと問われ、林氏の伝書とは違い、 ある人から承った(と答えた)。
盗んだ伝書は残念ながらこの時点までに書き写された上証拠隠滅(破棄)されてしまった 可能性が高い。
またこの時点で後に"ある人"とされた松吉をまだ知らなかったのだろう。


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