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2. 正伝無雙直伝英信流居合兵法正史
【2】土佐傍系の記録   研究:若浦館長
 
傍系派左記(傍系行宗貞義の弟子、土佐:曽田虎彦氏研究、昭和25年1月急死)20代宗家河野 百錬の同士で(傍系派書簡と偽書土佐神伝流秘書)を譲り渡す。曽田氏の研究では神伝流中山博道と傍系細川義昌の接点無、森本卯久身の弟子と認定されてい る。

山川久蔵幸雄(傍系二代)と初代松吉
「土佐居合兵法神伝流秘書」1819年(文政2年)十一月吉祥日 山川久蔵幸雅(述)

 土佐傍系山川久蔵幸雄は、
前名を錠八政乃丞と 称し、1808年(文化5年)7月7日養子縁組、同年9月21日に跡目を相続し山川姓を名乗った。同文化5年、江戸軍備御用役病指許された前正伝十二代宗 家林益之丞政誠は病の為1815年(文化12年)12月に死去、十四代宗家に弟子入りした山川は、十二代の葬儀の際に歴代宗家の古伝書を盗み出し書き直し た。これが偽書土佐居合兵法神伝流秘書である。

 正伝十三代宗家依田萬蔵敬勝は
1787年(天明7年)跡目相続と同時に十三代 宗家を引継ぎ、1816年(文化6年)に逝去、十二代宗家より早逝している。 尚、十三代宗家依田と山川の接点はない。つまり山川は正伝十四代宗家林彌太夫政敬の弟子であることは、林家と歴代宗家の逝去年月日と病による役務の指許し の年月日を確認すれば直ぐ解る事である。(史料1:無双直伝英信流居合道叢書 (河野百錬著)

 山川の偽書「土佐居合兵法神伝流秘書」、傍系派系譜列伝「居合根元の巻」(後の日本4代偽書のうちの二つ)において、山川は正伝十一代宗家大黒を十代代 宗家に繰り上げつつ正伝十代代宗家林安太夫政詡を抹消し、十一代宗家に松吉八左衛門貞助を当て馬として配置した。
そのうえで山川自身を十二代に据え、分派系譜を四代繰り上げている。山川はあたかも正伝宗家跡目相続の内紛を原因とする既成分派が在ったかの如く偽の系列 を仕組んだのである。

 正伝十一代宗家大黒は1790年(寛政2年)の死亡、正伝十代は1769年(明和6年)に「老齢衰弱倅代勤」ののち、1778年(安永7年)7月14 日、江戸にて逝去している。

 当て馬とされた傍系初代、傍系偽証十一代松吉八左衛門貞助(久盛)は1783年(天明3年)7月13日養父より
五人扶持十石の跡目を相続。 1789年(寛政元年)3月14日、前年に任命されていた御郡方御用を罷免され、1819年(文政2年)4月、自ら謹慎を願い出ている。1822年(文政 5年)10月10日に死亡(自殺か他殺か)。表向きの死因は病死である。ちなみに居合の痕跡はない。

 傍系二代山川久蔵幸雄(前名錠八政之丞)は、1808年(文化5年)7月7日養子縁組を受け江戸城へ礼代登城、同年9月21日養父跡目を相続した。 (注:その翌年の文化6年に正伝宗家十三代依田逝去)
 この後文化10年頃、数年間”居合心掛け”山川として十四代宗家へ入門し、病床の前十二代宗家より数手学んだとされている。(史料2:十二月十六日剱客林益之丞政誠歿ス」

 1815年(文化12年)12月、十二代正伝宗家林益之丞政誠葬儀の混雑に乗じ、林家秘蔵の正伝歴代宗家の伝書を盗み出す。このとき、林父子九代宗家が 修めた貴重な故実「伊勢流礼法」の文献も犠牲となっている。伝書窃盗に気付いた十四代宗家は山川に対し長谷川居合の免許皆伝で誘き出すが、山川は「分不 相」とし、暗殺を恐れ江戸に逃げのびた。(史料3:伊勢流「伊勢兵庫貞益」関連資料


 破門(疎遠)となって後、山川は師家に化け弟子を取りだした。そこで問い詰めると書き直した長谷川居合伝書を所持している事が判明したが、誰から授かっ たものかと問い詰めても頑として吐かなかった。追い詰められた山川は、この後1819年(文政2年)10月吉祥日、偽書「土佐居合兵法神伝流秘書」に書き 直し、さらに当て馬十一代松吉八左衛門久盛を伝書授かり人として、でっち上げ勝手に利用した。まさに「死人に口無し」である。山川は松吉が死ぬ事を確信し ていた。その上、1719年(
享保4年)に逝去した長 谷川英信を記念して立ち上げられた「無雙直伝英信流居合兵法」をもじり、流名を「無雙神伝英信流」とした。さらに九代宗家の父、林五左衛門政良が伊勢流礼 法を元に考案した初伝業を大森流と捏造。居合兵法伝来「根元の巻」で正伝十代宗家安太夫政詡を抹消し十代を大黒、十一代を松吉、十二代を山川とする分派宗 家を四代繰り上げる改竄を行った。何か得体の痴れない女々しさで怨恨を晴らしていた様に思える。(山川は一生無妻であった。)
 この偽書は土佐傍系居合の風評として生き続け、中山博道の弟子達(財・全剣連)によって悪用・復活された。山川はこの偽書作成の翌年、1820年(文政 3年)に数年、長谷川居合心掛けにつき10石取りで江戸下屋敷居合指南役となり、破門が解かれている。詫びを入れ和解したのであろう。1846年(弘化3 年)2月9日、老年につき指南役罷免と記録。女々しく役に固執したが白銀三枚で納得したという。1848年(嘉永元年)10月8日病死。

 
傍系居合の変形した半身抜 きと血振いは、山川の数年程度の居合経歴を如実に表している。道を外した問題児山川には、無言の罰則により中伝までの居合しか修められな かった、その証である。
(註、1640〜1657年(慶安、承応、明暦)百俵10人扶持「百俵6人泣き暮し」・・困窮していたことであろう。)

下村茂市定(傍系三代)
 下村茂市定は傍系史観系譜十三代目と記録されているが、正伝史観では十七代目の傍系居合人である。
土佐藩御侍中先祖系図牒には1852年(嘉永5年)1月に居合体術導方、1868年(明治元年)居合術指南役となるも、廃藩置県が施 行された。
 1862年(文久2年)土佐の参政吉田東洋は藩校文武館(後の致道館)の建設を計画したが、同年4月5日藩校文武館の開校式の四日後の朝、暗殺されてし まう。このとき東洋を警護していた傍系下村一門は何の役に立つこともなく東洋を捨て遁走した。下村は吉田東洋のボディガードに抜擢され、藩校の居合術指南 に潜り込んだのである。(その藩校に後の十七代大江正路が居た。)

行宗貞義(傍系四代)以降
行宗貞義    学校の守衛(小間使い?)
曽田虎彦    傍系派研究家
細川義昌    国会議員
植田平太郎   分裂弟子

中山博道
中山と細川の子弟関係は存在しておらず、森本卯久身の弟子というのが事実である。
偽証の歴史:十八代(昭和45年・石碑記載)→十五代(昭和51年)→十六代(昭和52年・
月刊日本剣道
その後今日に至るまで、十六代を定説化。これを模倣した宗家乱立が国内で発生する。



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